愛されることの何ぞ嬉しき。愛することの何ぞ嬉しき。 武者小路実篤
0.チュートリアル
人は何のために働くのか。生きるため、飯を食うため、中には充実感を得るためという人もいるだろう。別に俺は何だっていいと思っている。苦痛よりは楽しいほうがいいし、貰えるならたくさんお金は欲しい。でも頑張りたくはない。ある程度の労力で、ほどほどに仕事をして、まあまあ元気な感じで日々を過ごしたい。
世間は俺みたいな人間を「ゆとり世代」だと言うけれど、そうさせたのはあんたらだろうとしみじみ思う。頑張ったところで認められない。努力したって報われない。待っているのは明るくも輝かしくもない未来だけだ。そんな中で何を希望にいけというのか。
「お先に失礼しまーす」
定時ピッタリ、時計の針がまっすぐになる。終業のチャイムと同時に俺は荷物を持って立ち上がった。きっちり八時間労働、無駄はない。与えられた仕事はきちんとこなして、休みもきちんととって、土日は何があっても仕事のメールは見ない。電話にも出ない。人生何事も省エネが一番だ。
隣に座っている先輩が疎ましそうな目でこちらを見てきた。どうやら今日も残業のようだ。そんな目で見られても俺は今日の仕事を全部終わらせているのだ。残る必要はどこにもない。始業時間二分前に席に着き、終業時間ピッタリに席を立つ。夏なんかは空がまだ明るい時間に帰られるし、冬はさすがに外が暗くなっているけれどコンビニに寄ってあったかいコーヒーを買って帰る程度の楽しみはある。
そこそこの成績、目立たず奢らず、可もなく不可もなく。それが俺の生き方だった。
「そろそろアップデート終わるかな」
会社を出てポケットからスマホを取り出す。ラインだとかツイッターの通知は全部無視をして、四角いアイコンをタップする。歩きながら操作するのは怖いからとりあえずダウンロードだけしておいて、続きは電車の中かな。Wi-Fiをつないでいないからダウンロードも遅いだろうし。それにコンビニで買わないといけないものもある。
駅の近くにあるコンビニは小さいけれどそこそこ品揃えはいい。一番安いカップ麺と、発泡酒と、それからレジの前に置いてあるカードを一枚手に取った。このコンビニで買うと、結構いいのだ。今までの経験上。
「すいません、これ、五万円分で」
「えっ」
「えっ?」
「……あ、はい。五万円分ですね」
驚かれたように声を出されたからなんでだろうと思い店員の顔を見ると、どうやら新人のようだ。顔見知りの店員なんかは俺が何も言わなくても「五万円でいいの?」と最初から言ってくれる。財布から諭吉さんを五人引き抜いて、青年の手に押し付けた。大事にカードを受け取って財布にしまう。ちらりとスマホを見てみると、ダウンロードはもう直ぐ終わりそうだ。電車の中でちまちまカードを触るのは、もし落としてしまったらと思うと怖くてできない。それはもう、家に帰ってゆっくりとすればいいか。
改札をくぐってホームに行くと人はまだそこまで多くない。人ごみに飲まれることなくゆらゆら十分くらい揺られれば、そうしたら俺の楽園まであと五分ほどだ。早く帰りたいなぁ。涼しいクーラーの効いた部屋で、大して上手くもないけれどまずくもない発泡酒を飲みたい。それまで、もうあと少しの辛抱だ。
「今回は気合入れていかねーとなぁ。期間短いし」
ダウンロードは終わっていたらしく、小さな画面にタイトルが映し出される。スタートボタンを押したタイミングで、ちょうど電車がやってきた。すぐに降りられるようドアに近いところを陣取ってイヤホンをする。乗り過ごさないように気をつけないと。とりあえず、最初にこれだけはやっておこう。
『プリズムストーンを八十六個購入します。よろしいですか?』
ためらいもなく『はい』を押して、指紋認証をする。無事に購入できたようで石の蓄えが増えていた。これでダメなら先ほど買ったミュージックカードを使えばいい。
「試しに一回くらい回しとくか」
最寄り駅まであと一駅、時間としてもちょうどいいくらいだろう。キラキラ輝く、美しい石。俺の希望、俺の喜び。俺は、これのために働いているのだ。
「あ、虹エフェクト……!」
その色を見るだけで、俺は生きていると思えるのだ。
☆☆☆
昔から自分の名前が嫌いだった。名字はすごく平凡なくせに俺の親は何を思ったのか仰々しい名前を思いついてしまった。藤村なんて名字はどこにでもいる。福岡の、ど田舎の、どこにでもいるような家庭に生まれたのに。鍵を取り出そうとして一緒にこぼれ落ちた社員証に書かれた自分の名前が目に入った。ぼんやりとした顔で映っている証明写真の隣には大きな文字で「藤村家康」と書かれている。
それが、俺の名前だ。
家康、家康って。現代日本でその名前を知らない人は誰一人としていないだろう。小学生だって知っている。そんな名前を、何を思ったか俺の両親は思いついてしまって疑問を抱くことなく名付けてしまった。
そのおかげで俺は小学生の頃から散々からかわれてきたし、いじめられることだってあった。子供というのは残酷なもので、自分と違う存在を見つけてはそれを吊るし上げ、そうすることで自分の確固たる立場に安心する。いつ自分が吊るし上げられるかと怯えながら、それでも誰かをいじめるその瞬間の優越感に浸る。言ってしまえば裏表のない、分かりやすい力関係だ。倫理的には最低だし、いじめられていた側だから今思い返してもはらわたが煮えくり返りそうだけれど。まあ、終わったことだ。
だがそういう環境の中にいたせいか、俺はいつの頃からかできる限り目立たないように振る舞うようになった。テストでいい点数をとっては目立ってしまう。逆に悪い点数を取ってもいけないから、平均点ギリギリのところをいつもさまよっていた。中学生になってもそれは変わらず、制服はきちんと着て、かといって生真面目すぎないように適当にサボって、どこにでもいるような人間として生きてきた。
結局、この名前だけが一人歩きしていたのだ。俺自身は大したことない人間で、何かができるわけでもない。スポーツも人並み、勉強も人並み、目立たないことをモットーに生きてきたら本当に何もできない人間になってしまった。
結局それは高校生になっても、大学生になっても変わらず、幼いころ目指していた「目立たない」人間へと無事育ってしまった。その結果が今の省エネな生き方なんだけれど、別にそこに不満を抱いているわけではない。疲れないし。怒られないし。嫌な顔をされても無視すればいいし。だって仕事のために生きているわけではない。
ワンルームの部屋は真っ暗で、のそのそ靴を脱いで電気をつける。スーツを脱いで着替えながらケトルのスイッチを入れて、お湯が沸くまでの間に急いでスウェットに着替えた。スマホを充電器につないで、これで準備は万端。ちょっと温くなった発泡酒で喉を潤しながら、青い鳥のアイコンをタップする。先ほど電車の中で撮ったスクリーンショットを貼り付けて投稿すると、すぐさまぴこぴこと通知がなり始めた。
「おーおー、みんなドブってるねぇ」
メンテナンス直後、開始数分でピックアップを引いた。これはなかなかに幸先がいい。ただ俺の場合はここからが大変だ。そのために約六万円分の石があるのだけれど。お湯の湧いた音がする。カップ麺に注いでいる間に、俺のツイートは数千人の人にリツイートされていく。
何の取り柄もない俺が、唯一何の心置きなくやれるのがこのツイッターだった。本名じゃなくていいし、リムーブとかブロックとかで嫌な奴とは関わらなくていい。名前のことで何か言われるわけではないから本当に気が楽だ。仕事中はつぶやけないけれど、こうして家に帰れば基本的にずっとアプリを開いている。
それともう一つ。俺が心から楽しいと思えることがある。
「今回のイベントはどんな感じかねぇ。前みたいにドロップしょっぱいと萎えるけど」
一人暮らしが長いせいで染み付いてしまった独り言が部屋に響く。ちょっと伸びたカップラーメンをすすりながらアナウンスに目を通した。最近はずっと復刻イベントだったから、こういう新規のイベントは久しぶりだ。報酬で新しいキャラクターが配布のようだし。さっさと走り終わって育成をしなければ。
それに、コンビニで買った分の石もある。ここからが本番だ。
「イベントが面白かったらお礼の課金でもするか。この前も良かったし」
二年前、とあるアプリゲームがリリースされた。おとぎ話をモチーフとしたRPGで、キャラクターを集めて敵と戦っていく。そこまではどこにでもあるようなものだったけれど、そのストーリーがとてつもなく良いのだ。がっつりとキャラを掘り下げてくるし、キャラクター同士の掛け合いも見ていて楽しい。そして何より、とても泣ける。
ゲームで泣くことなんて経験したことがあるだろうか。俺は今まで一度もなかった。だってたかがゲームだし。画面の向こう側で起こることと現実の世界は何の関係もない。そう思っていたのに、このゲーム、『絵のない絵本』はその固定概念を大きく覆してきた。
主人公はどこにでもいるような普通の人間だ。名前は自由につけていいし性別も選べる。しかも途中で変更できるというから至れり尽くせりなゲームだ。
物語序盤、この世界は崩壊しそうになる。いきなりかよ、と思ったけれどまあゲームなんてそんなものだ。世界を救うため、主人公はとある機関に召集される。そこは世界中の文化を保護する特別機関だった。今世界が滅亡しかけているのは、幾つかの物語が書き換えられているからだそうだ。物語を元の形に戻し、世界を救うため主人公はサポート役として与えられた一人の少女と共に世界を救う旅に出る。
これが、簡単なあらすじだ。現段階でメインストーリーは全て完結し、以前行われていたイベントの復刻や追加イベントが主になっている。もともとがおとぎ話ということで登場するキャラクターもそれにちなんでいる。赤ずきんとか、シンデレラとか、そういう有名なキャラクターたちを仲間にして戦っていくのだ。
その召喚の際にはプリズムストーンという石が必要になってくる。物語を進めていったり、毎日こまめにログインしていればもらえるのだが、それでは数が足りない。なんたって一回召喚するためにはこの石が三個必要になる。しかも今回みたいに期間限定のピックアップだとすぐに来てくれるとは限らない。だからこうして、俺は毎回何万円も課金しているのだ。
「よーし、回すか。五人来てくれないとイベント走れないからなぁ」
残っていた発泡酒を飲み干して正座をする。先ほど電車で引いたのはレア度が四のキャラクターだった。俺が狙うのはレア五のキャラクターだ。今日から始まったイベントは日本の御伽草子が舞台だ。そのためピックアップされるのもそういうキャラクターばかりだ。一番レア度の高い「かぐや姫」、次に高いのが「光源氏」である。使い勝手はどちらもいいし、どうやらこのイベントでパーティに入れておくとボーナスポイントもあるらしい。さっきは光源氏を引いたから、残すところはかぐや姫のみ。今は結構流れが来ているし、このままうまく引ければいいけれど。
「光源氏もあと四人欲しいしな。ついでに来てくれねぇかなぁ」
コンビニで買ったカードの番号を打ち込んで五万円分チャージする。それから石を買い込んで、また召喚画面に移った。同じキャラクターは、五人いれば必殺技の効果が上がる。攻撃力だけではなく、追加効果の威力も上がるのだ。一人いればそれでいい、というのが普通の考えだろうが、俺はどうしても五人集めたかった。たとえそれがレア度の高いキャラクターだとしても。
とりあえず十連で回してみる。レア度の高いキャラクターが来ると画面に虹のエフェクトが出るが、今回は何も起こらない。見事なまでのドブだ。気を取り直してもう一回。これは運とかジンクスではなく、完全に金の力だ。金がすべて。金こそ力。そのために俺は、日々働いているのだ。
ほぼ無心で召喚する。ここで変に期待してはいけない。物欲センサーと言われるものがあるけれど、欲しいと思えば来ない。期待するとその分失望が大きい。だから俺は、ひたすら無心で回す。石が足りなくなったら課金して、今まで手に入らなかったキャラクターは一人もいない。
それを記録代わりにツイッターにアップしていたら、いつの間にかフォロワーが増えていた。最初は数人だったフォロワーも今では数千人になっている。毎回ピックアップが発表されるたびに「たぬきちさんのガチャ芸、楽しみにしています!」と言った旨のリプも送られてくる。別に俺は誰かのためにガチャを回しているわけではないけれど、ここまで期待されると何としてでも五人引かなくては、と思ってしまう。
それに昔から変に完璧主義なところがあって、中途半端なまま放置しておくくらいならとことんまでやってしまいたい。学生時代も今も、そこまで何かに夢中にはなれなかった。なっても意味がなかった。目立つとバカにされる。いじめられる。でもゲームやネットの世界だと誰も何も言わない。俺の名前が何であろうと、ハンドルネームで隠すことができる。
「お、虹エフェクト! さーどっちだ?」
何の形にも、誉にも、得にもならないとわかっているのに。俺にとってガチャを回すことはもはやキャラクターを引き当てる手段ではなく、生きがいになっていた。画面の中で虹の輪が光る。数えていなかったけれど、石の数を見ると多分これが七十連めくらいだろう。今回は少し調子が悪いな。また後で課金するためにミュージックカードを買いに行くか。
メンテナンスが明けてもう直ぐ一時間。そろそろ良い結果をツイッターにアップしたい。何度も光る虹色を見て、俺は小さく笑った。これだから課金はやめられないのだ。
☆☆☆
新しいイベントも無事走り終え、光源氏もかぐや姫も五人ずつ揃え、ツイッターのフォロワー数もまた百人ほど増えた。とはいえ、イベントがないととりたててつぶやくこともない。仕事のことは呟きたくないし、ゲームのシナリオはもう全部クリアしているから育成のために必要な素材を集めることくらいしかやることがない。
新しく手に入れたキャラクターたちはもう最後まで進化させてしまったし、残っているのはレアリティの低いキャラクターばかりだ。これらを育てても使う時はあまりない。最初期に手に入れた「お供の犬」なんて、レベルはもうずっと一のまま。そりゃそうだ。使わないんだもの。育てるための素材はやはり強いキャラクターに使いたい。
「あー、暇だな。またイベントやってくんねぇかな」
先週の週末はイベントを走るために徹夜してしまった。だから今週はダラダラしようと思ったけれど、何もすることがない。ツイッターとゲーム以外俺には趣味がないのだ。アニメとかもあんまり見ないし。一応ツイッターで話題になっているものは録画しているけれど、ゲームをするときに適当に流して見たつもりになっているだけだ。本腰を入れて見るものじゃあないと思っている。
とりあえず何か流すかとテレビの電源をつける。狭いワンルームだからソファなんてお洒落なものは置けない。その変わりベッドで全てのことができるというのはある意味楽だ。ご飯もゲームもテレビも、全てここで行える。のそのそ起き上がってハードディスクを起動して、一番上に表示されたアニメを選んだ。
キャッチーな音楽と鮮やかな色が薄型テレビに流れる。それを聞きながら『絵のない絵本』を立ち上げて、ほとんど惰性的な動きでノートを取り出した。そこに今回課金した額を書き込む。ミュージックカードが十万円、クレジット支払いが五万円、成果は上々。うん、今回は安く済んだな。十五万でかぐや姫と光源氏が五人ずつ揃って、ついでにピックアップをすり抜けて☆五キャラクターの「ラプンツェル」が来た。これはもう五人揃っていたけれど溶かせばいい素材になる。収穫はこれくらいか。
ちなみに俺がツイートした五人揃えたかぐや姫の画像は、かなりの人からリツイートされていた。中には「二万円課金したのに一人もこなかった」と呟いている人もいた。俺から言わせてみると、やはり金が全てなのだ。こっちは十五万円積んだ。だから五人きた。それだけの話だ。リアルラックとかそんなのあるはずがない。人によって回せる金額は違うだろうから俺はなんとも言えないけれど、自分に出来る範囲で楽しむのが一番だ。俺にとっての楽しみはレアリティの高いキャラクターを手に入れることなのだ。だからその目的が達成されるまでいくらでも金を積む。そのために働いているんだし。
今までにいくら積んだのか記録しているノートをめくってみる。ゲームを始めた二年前から今まで、合計するとたぶん東京の郊外に家を建てられるくらいになっているだろう。俺も新卒で働きだしてすぐだったからそこそこ金はあったのだ。でも大学生の頃と違い時間はなかったから、結果としてこういう働き方になった。省エネで無理はしない。その分お金はちゃんともらう。イベントでどうしても欲しいキャラクターがいて、どんなに課金しても出なかった時だけ残業をするけれど、それ以外は基本的に定時退社。うん、なんて平和なんだ。
「あー、暇だなぁ」
記録もつけ終わったし、アニメもいつの間にか終わってしまった。一体どんな話だったんだろう。あとでツイッターかネットで検索しておこう。素材でも集めておくかと思い『絵のない絵本』を立ち上げる。イベントは終わったけれど成長させるための素材はいくらあっても困るものではない。今のうちに集められるだけ集めておかないと。
そういえば明日はフォロワーの「生類憐みの令」さんとVR体験イベントに行くんだった。と言うかあの人、なんであんな名前なんだろう。すごく呼びにくいんだけど。すごくいい人だし、いろいろと情報をくれるけれど名前だけは如何しても理解できない。俺が人のことを言えた立場じゃあないけれど。お前も将軍かよ、なんて、こっそりそう思っていた。
でも本当にいい人で、明日のVR体験会だって令さん(俺は彼のことをそう呼んでいる)が誘ってくれたのだ。『絵のない絵本』としては初めての体験会だそうで、参加するためには抽選に受からないといけない。それでも令さんは二人分当選し、そして俺を誘ってくれた。彼もまた重課金をしている人で、ひどい時は俺よりも課金をしている。以前どうしても欲しいキャラクターが一日限定でピックアップになり、その時は六十五万円課金したらしい。六十五万円はさすがにすごい。それでお目当てのキャラクターをきっちり五人引いているのもすごい。
タブレットでツイッターを開いてみると、令さんは今回あまり課金をしなかったそうだ。とはいえ、ちゃんとかぐや姫も光源氏も引いたようだ。この二人を揃えるくらいだったら多分そこまで課金しなくてもいい。普段から石をちゃんと貯めていれば、下手したら課金しなくても引けるだろう。何を目的としてゲームをしているか、というのが、やはり一番大事なのだ。
「明日か。楽しみだなぁ」
朝早くにビッグサイトで待ち合わせだ。早く寝ておかないと。整理券の番号的にどうやら一番最初のグループなんだとか。ガチャにリアルラックはないけれど、こういうところには関係していると思う。どうやったら倍率三十倍の抽選に当選して、しかも二枚手に入れられて、おまけに一番最初のグループになれるんだろう。俺ももう少し日頃の行いを良くすればいいのだろうか。いやでも、別に悪いことをしているわけでもない。仕事だってちゃんとしてるし。先輩に生意気な口を聞いているわけじゃあないし。確かに始業ギリギリに出社したり残業せずに帰るけれど、でもそれは問題ではないはずだ。
惰性的な動きで素材を集める。日々のルーティーンだから、もう何も考えなくても周回できてしまう。ダラダラとキャラクターのアイコンをタップして、早く明日になって欲しいなと思った。ごろりとベッドに寝転がって目を閉じる。暖かな土曜日の昼下がりは、どうしようもなく眠たくなる。
昼飯は今日もカップ麺だ。削れるところを削らないと、課金に回せなくなる。味とか栄養とかは二の次で、とりあえず腹が膨れたらそれでいい。夜は安い缶詰に家で炊いた白米かな。簡単だし、楽だし、安いし。そんなんじゃ体調を崩すぞと言われるけれど、別に仕事で疲れることもないし風邪も今までそんなに引いたことがない。毎日ちゃんと寝てるし、職場までは割と歩くし、結構健康的な生活をしているのだ。
「寝ようかなぁ……眠てぇ」
うとうとしながら最後の敵を倒し終わる。高らかに鳴り響くファンファーレを聞きながら俺は目を閉じた。続きはまた夜にすればいいか。どうせ今日はやることがない。大きくあくびをして、そのまま眠りに落ちていった。
結局その日はそのまま眠りこけてしまい、起きたら次の日の朝五時だった。そこから慌ててシャワーを浴び、着替えて家を出たのが六時半。家からビッグサイトまでは電車で一時間程度だ。待ち合わせは八時だから、どこかで軽く食事をしよう。家には残念ながら何も食べるものがない。
誰もいない電車に飛び乗って、ほうと一息ついてからゲームを立ち上げる。昨日はあのまま寝てしまったからスタミナは溜まりまくっている。どうせ今からしばらく暇なのだ。せっかくだから消費しておこう。朝食を食べるのはコンセントのあるカフェにしよう。そうしたら充電もできるし。きっと体験会が終わったらカラオケかどこかに入って令さんとゲームをするだろうから、充電はちゃんとしておかないと。
国際展示場前に着くと、まだそこまで人は多くなかった。開場までまだ時間はある。これならゆっくり食事ができるだろう。令さんに「駅中のカフェにいます」とDMして、冷たいコーヒーとサンドイッチを注文した。奥の方にある喫煙室には確かコンセントがあったはずだ。俺はタバコを吸わないけれど、今みたいに誰も客がいなければ匂いも気にならない。それに、充電の方が大事だ。案の定、喫煙室には俺以外には一人しか客がいなかった。その人も今はタバコを吸っていない。
仕事がある日よりも早起きだけど、そこまで苦痛じゃないのは楽しいことのためだからだろう。早速スマホに充電器を差して、それからサンドイッチを口に含む。柔らかいハムは程よく塩気が効いていて、甘い卵との相性は抜群だ。ふわふわのパンもちょっとだけ甘くて、苦いアイスコーヒーによく合った。
「素材も集め終わったしどうすっかな……」
暇だからツイッターでもするかとアイコンをタップする。令さんからは「了解しました」と返事が来ていたので、あとはもうやることがない。適当にタイムラインを遡るけれどそんなに重大な事件は何も起こっていなかった。イベントが終わってすぐだからなのか、まだフォロワー数は減っていない。このままずっと次のイベントがなければきっとすぐに数百人は減るだろう。みんな俺がガチャを回すことにしか興味がないのだから、それも当然の話だ。そのことが嫌なわけでもない。俺はそういう存在なんだと理解した上でツイッターをしているからだ。
ずるずるとみっともない音を立てながらコーヒーをすする。さっき起きたとか、眠たいとか、ご飯食べたとか、そういうどうでもいいことをみんな呟いている。そんなの知ったところで何が楽しいのだか。まあ、それを呟くことが楽しいのだろうから、俺は何も言わないけれど。でも正直、見ていて別段楽しくはない。
「ふあーあ、暇だなぁ……」
「少し失敬」
「うわっ!」
思いがけなく声がして、素っ頓狂な声を上げてしまった。いつもの癖で独り言を呟いていたらしい。それがうるさかったのだろうか、それとも他に何かあるのだろうか。しかも何だか、この人、すごく格好が変だ。もう季節は初夏だというのに真っ黒なコートを着ているし、同じ色をしたハットもかぶっている。顔は隠れて良く見えないけれどわずかに見える髪は、多分、銀色だ。
何この人、コスプレ?
「な、何でしょう」
「火を」
「へ?」
「火を、貸してもらえるか」
「えっ、あ、火、ですか……あの、俺タバコ吸わないんで、火持ってないです……はい」
動揺していたせいかついいかにも「オタク」みたいな話し方をしてしまう。いや、立派なオタクなんだけど。でも普段はもっとこう、一般人に見えるようにちゃんと演じているのだ。テレビに出るようなテンプレートめいたことは言わないし、そう見えないようにきちんとしている。
髪だってきちんと切りそろえて、変に染めてなくて、まあちょっとだけ猫背だけどそれ以外はいたって普通だ。どこにでもいるような、それこそゲームの中でいうとモブみたいな、そんな見た目だ。それに対して目の前にいるこの男の人は、強いて言うなら☆五キャラくらいのインパクトはある。なんだろう、オーラが違うのだ。
「タバコを吸わないのにここにいるのか、お前は」
「え、あ、はい、充電がしたくて、スマホの」
「ふむ」
「えーっと、すいません……」
突然黙ってしまったせいで、てっきり怒っているのかと思った。別に俺は怒られるようなことはしていないけれど、なぜか背筋がピンと伸びる。俺みたいに地味なやつがこんな派手な人間に絡まれるなんて。どうしなくても目立ってしまう。ああ、嫌だなぁ。ここは早く立ち去ってもらわないと。気が気がじゃなくなる。
終始ビクビクしていると、男性は突然俺の方に手を伸ばした。何事かと思いとっさに身を引く。しかし相手の動きの方が早くて、指先が頰をかすめていった。その手は、びっくりするほどに温もりがなかった。熱くもなければ冷たくもない。そう、まるで、人形のようだ。
「……えっ」
「また会おう」
「はっ?」
どういうことなのかと聞き返そうとしたら、いつの間にか男性は姿を消していた。ほんの一瞬、それこそ瞬きをしていた間のことだった。残されているのは湯気の消えた彼のホットコーヒーと、濃い葉巻の香りだけだった。
一体、どういうことなんだ。それまで確かに目の前にいたのに。人が、魔法のように消えるなんて。そんなことありえるのだろうか。そんな、まるで、おとぎ話みたいなことだ。
「どういう、ことだよ」
自分の発した声が別人のように聞こえる。それと同時にスマホが震えて、もう直ぐ到着すると令さんから連絡が届いた。きっと中途半端に寝たせいでおかしな幻想を見たんだ。うん、きっとそう。令さんに会って、いつも通り話していれば直ぐに大丈夫になるだろう。
それになんたって、これからVR体験会だ。こんなことで気落ちしている暇はない。残っていたコーヒーを飲み干して、令さんに会うために店を出る支度をした。
☆☆☆
「いやぁ、それにしても、ほんとに、楽しみ、ですねぇ」
ニコニコと笑う令さんに、俺も「そうですね」と返した。今までに何度かお会いしたことはあったけれど、今日はいつになく上機嫌だ。俺よりも二歳年上の二十六歳で、在宅の仕事をしていることは前に聞いていた。俺と違いある程度自由に時間を取れるから、この前のイベントも早々に走り終わってしまったそうだ。課金をしたいからイベントのない時に仕事を詰め込んで、そのお金を一気に使うのがストレス発散なんだとか。
アニメの情報とか、ゲームのこととか、困ったことがあればいつも令さんに聞いていた。聞けば何でも答えてくれる。頼れる兄貴分、というには少し頼りない見た目だけど、今日みたいに何かあれば誘ってくれるからありがたいと思っている。
「たぬきちさん、今日、身分証明書がいるので、準備して、くださいね」
「あ、はい。免許証でいいんですかね」
「いいと、思い、ますよ」
彼が文節で区切りながら話すのは、もうそういう癖みたいなものらしく、最初は戸惑っていたけれど慣れればなんて事はない。むしろその独特のテンポは聞いているとどこか安心する。見た目は背の高い優男だけど、口を開けばかなりのオタクだ。家に引きこもっていることが多いせいか肌も白いし、黙っていれば本当にモテそうなのに。彼自身は仕事とゲームが楽しいから恋人はいらないのだそうだ。
今回のイベントについて色々と話しながら会場に向かう。広い東ホールは、すでに人でごった返していた。俺はあまりビッグサイトには行かないからうっかりするとはぐれてしまいそうだ。ちなみに令さんは同人活動もしているからここには詳しいのだとか。俺も今度行ってみようかな、コミケとか。何か欲しいものがあるわけじゃあないけど。
「あ、ここ、ですね」
「おー、すごい人」
「早めに、来て、良かった」
「本当に。ありがとうございます、令さん」
遠くに『絵のない絵本』の大きなブースが見える。整理番号は五十二番。係員の人に番号を伝えると、ここに立っていろと言われて二人で並ぶ。一人一分という短い時間だけど、それでも最新鋭のVRを体験できるのだ。与えられた一分を大切にしなければ。
今回はゲーム内でサポート役であり、助手役のエリナが実際に、目の前にいるかのような体験ができる。もちろんグラフィックのみだから触れたりなんてことはできないけれど、本当に生きているかのように見えるのだとか。
エリナはゲームの最初に与えられるキャラクターで、攻撃力はあまりないが防御に優れている。成長していけばノーダメージでボスと戦えるし、終盤は彼女がいなければ進めないほどだった。それに何より、物語が進むにつれて彼女の過去が明らかになってくる。それがもう、本当に泣けるのだ。
それにビジュアルも可愛らしい。最初はおかっぱで垢抜けない感じなのに、最後まで育つと髪は緩くウェーブのかかったロングになり、顔に自信も出てくる。それに衣装がウェディングドレスのような純白になり、彼女のストロベリーブロンドの髪が綺麗に輝くのだ。俺はその絵を見たとき思わず泣いてしまった。俺が幸せにするから、と本気で思い感動のあまり課金をした。
「このゲーム、結構、たくさん、女性キャラが、出るじゃないですか」
「そうですね。かぐや姫も追加されたし」
「そう。でも、やっぱり僕、エリナが、一番だと、思うん、です」
「わかります。なんだろう、俺のエリナ! って感じが」
「主人公の、ことを「先輩」って、呼ぶのも、いいですよね」
エリナは、主人公のことを名前ではなく「先輩」と呼ぶ。戦闘の時は他のキャラクターと同じく「チーフ」と呼ぶが、それ以外のプライベートでは「先輩」というのだ。それがまた可愛らしい。しかもはっきりと明記はされていないが、どうやら主人公に好意を抱いているようで、たまに嫉妬したり拗ねたりもする。ラブストーリーではないけれど、そういうちょっとしたラブコメめいたものも楽しみの一つなのだ。
ゲームの中だから会えないことはわかっているし、俺に向けている感情じゃないということもわかっている。それでもやっぱり、彼女は特別なのだ。あれ以上の子が現実にいるだろうか、いやいない。だから令さんみたいに同人誌でエリナとの恋愛ストーリーを描く人が多いのだ。
とはいえ、今まで課金してきたことで今日こうしてグラフィックだけどエリナに会えるのだ。そう思うと、課金してきてよかったとしみじみ思う。いや、そのために課金していたわけでもないけれど。
「そういえば、今回のイベント、良かったですよね」
「すごく良かった! かぐや姫のお話に光源氏が出てくるってどういうことだよって思ったけど、あれは上手かったですね」
「あれやると、欲しく、なりますよね。かぐや姫も、光源氏も」
「今回はあんまり課金しなくても来てくれたから、本当に良かった」
「たぬきちさん、結構、課金します、ものね」
「そうそう。もうそれが生きがいっていうか、楽しみというか」
そうこうしているといつの間にかもう直ぐ俺たちの番になっていた。順番としては俺の方が先だ。免許証を取り出して直ぐに見せられるようにしておく。社員証でもいいんだろうけど、あの写真は写りがひどいのでこっちの方がまだマシだ。別にいいわけでもないけれど。
あ、でも。ここでもまたおかしな顔をされるんだろうな。俺の名前を見ると、みんな決まってキョトンとした顔をする。そりゃそうだ。こんな平凡極まりない見た目なのに名前が「家康」だなんて。もし逆の立場なら俺もきっと同じ反応をする。いい加減慣れたけれど、それでもやっぱりいい気分はしない。さっさと見せてしまおう。
「あれ、たぬきちさん」
「えっ、なんですか」
後ろにいた令さんがまじまじとこちらを見ていた。視線の注がれる先には、俺の免許証がある。なんだろう、免許証じゃまずいのだろうか。
「お名前、家康さんって、言うんですね」
「へっ!? あ、そう、ですね……そう、すごい名前でしょ。あはは……」
そういえば令さんには本名について話したことはなかった。ハンドルネームの由来もそういえば言ったことがない。あー、まさかこんな形でバレるなんて。というか、なんだろう、この気恥ずかしさ。完全に気を抜いていた。
「なるほど、それで、たぬきちさん、なんですね」
「まあ、タヌキ野郎っていうでしょ。それで」
「僕と、同じ、ですね」
「同じ?」
「そう」
令さんが見せてくれたのは、彼の免許証だった。どこか眠たそうな令さんの顔写真があって、名前の欄に書かれていた彼の本名を見て、俺は思わず声を上げてしまった。
「綱吉、さん……?」
彼の本名は、村井綱吉と言った。綱吉といえば五代将軍じゃあないか。なるほど、それで「生類憐みの令」なのか。なんだ。俺と一緒じゃあないか。
「まさか、似た様な、境遇人が、いるなんて。思いも、しなかった、です」
「俺も。なんだろう、すごく嬉しい」
「僕も、です、よ」
そうやって、へらりと笑った時に俺の番号が呼ばれた。さあ、いよいよだ。ついにエリナと対面できる。手のひらに滲む汗をジーンズで拭って、差し出されたゴーグルを受け取った。重たいゴーグルを目に押し当てる。薄暗いブースに入って、硬い椅子に腰掛ける。たった一分、それでも俺にとっては一生に勝る時間だ。
スイッチ入れますね、と外からスタッフの声がする。それに小さく「はい」と返して、ゴクリと生唾を飲み込んだ。VRがどういう感じなのか知らないけれど、耳元からキィンと機械音が聞こえてくる。目の前に少しずつ映像が浮かんできて、突然明るくなったかと思うと、目の前には。
「エ、リナ」
スマホの画面越しでしか見たことなかった、エリナがいた。すごい、本当にいるみたいだ。実在しているかのように髪が靡く。パチリと瞬きをした大きな瞳は、真っ暗な場所だというのに光を湛えて輝いていた。肩にかかるストロベリーブロンドの髪も、葡萄みたいな紫色の瞳も、ふわりと開く柔らかい笑顔も。それは、まさしくエリナそのものだった。
「すっげぇ……」
思わず声が漏れる。映像だけだから実際に触ることはもちろんできないが、これはつい手を伸ばしてしまいそうだ。そうか、あのゲームの主人公はいつもこんな風景を見ているのか。隣にはいつもエリナがいて、この笑顔を向けてくれる。そりゃ過酷な戦いでもやり遂げられるだろうよ。
「エリナ……」
つい、そうやって名前を呼んでしまう。自分の声が震えていることに気がついた。呼んだところで相手には聞こえないし、意味がないというのもわかっている。それでも声に出してしまったのは、なぜだかそうしないといけない気がしたからだ。なんでか、というのは、わからなかったけれど。
返事はないはずだし、ましてや反応なんてあるはずない。そう、思っていたのに。
『先輩』
「えっ」
俺の耳に響いたのは、紛れもなくエリナの声だった。VRにはそんな仕様もあるのか。それとも俺の頭がおかしくなっただけ?
『先輩? 先輩、ですよね』
「えっ、なに、なにこれ」
『そんなところで何をしているんですか、早くこちらへ……!』
「はぁ!? え、うわっ!」
明らかにこちらを認識しているかのようにエリナは声をかけてくる。たった一分なのにそんなストーリーでもあるの? ただ映像を見るだけとか、そんなんじゃ、ないの?
混乱しているうちにエリナはこちらに近寄ってくる。椅子に座っているから避けられるわけもなく、ただ身じろぐことしかできない。機械の故障だろうかと思った時、エリナの顔がぐっとこちらに近づけられた。
「はっ……」
目の前に、鮮やかな色が広がる。なびく髪が頬を撫でる。伸ばされた手は細く、それでも何かを守るためにいつも戦っていた。俺は、この色を知っている。液晶越しではなく、そう、どこかで。それは一体どこだったのだろう。
無意識のうちに俺も手を伸ばしていた。指と指が触れる。絡まり合う。ぎゅっと力を入れるとエリナも握り返してきた。これは映像なんかじゃあない。実物だ。肌には熱があり、瞳には光がある。
そして何より、エリナの目には紛れもなく、俺の顔が写っているのだから。
途端に世界に光が差し込む。突然眩しくなって目がくらんだ。足元から硬い床の感覚が消える。目に付けていたゴーグルが外れて、体も軽くなる。突然、強い引力に引っ張られた。体がふわりと浮く。縋れるものは何もなく、俺にはエリナと繋いだ手しかなかった。
『先輩、手を離さないでください! 絶対に!』
「わ、かった……! くそっ!」
言われなくても離すつもりはなかった。何があっても、たとえ腕がちぎれても、俺はこの手を離したくなかった。
『今度はちゃんと、私が守りますから』
「えっ?」
『いえ、こちらの話です』
意味深なことを呟いたエリナにどういうことかと聞き返そうと思ったら、鼓膜が破れそうな音が辺り一面に響いた。その衝撃に俺は、なすすべもなく意識を吹き飛ばされてしまった。
☆☆☆
目を開けるとそこは古い図書館のようだった。所狭しと書物が並べられている。壁一面に置かれた本棚には、古く掠れた文字でタイトルを書かれた本が敷き詰められていた。インクと、羊皮紙と、埃の香りがする。昔家の近所にあった古ぼけた図書館と同じ香りだ。いや、それよりももっと圧迫してくるものがある。それがいったい何なのか俺にはわからないけれど、でも少なくとも、ここが先ほどまでいたどこか消毒液くさいビッグサイトではないことはすぐにわかった。
自分の足が着いているのがフカフカの絨毯だということに気づくまでにしばらく時間がかかった。こんな場所、俺は行ったことも見たこともない。どうして俺はこんなところにいるんだろう。先ほどまで確かに、俺はビッグサイトにいたというのに。
「こ、こは……?」
「ようやく気づいたら、馬鹿者め」
「はぁ!?」
どこからか聞こえてきた低い声になぜか俺は罵倒された。なんだって言うんだ。俺が何をしたんだと思い顔を上げると、本棚の奥から姿を現したのは背の高い初老の男性だった。赤みがかった栗毛は好き勝手に跳ね回っており、来ているシャツもどこか薄汚れていた。手首なんてインクで真っ黒になっている。それでも堂々とした態度や不機嫌そうにひねくれた唇からは、ただ者ではないという雰囲気を感じ出せる。
それに俺は、この人をどこかで見たことがある。どこか、なんてふざけたことは言わない。そう、つい一時間前まで熱中していたゲームに、この人は確かにいたのだ。
「……はぁ!?」
「なんだ、うるさいな。ここは図書館だぞ。騒ぐのならさっさと出て行ってもらおう」
「いや、出て行けってその前に、あなた名前は、もしかして」
偏屈そうな表情、皮肉と毒舌にまみれた口調、そして非情になりきれないその性格。それは、まさしく。
「ハンス・クリスチャン・アンデルセン……?」
「なんだ。俺のことを知っているのか。ふん、ただの馬鹿と思っていたが違うようだな」
かの有名な童話作家だ、その人だった。
アンデルセンは『絵のない絵本』で主人公のサポートをするキャラクターだ。誰よりも早く物語に起きた異変に気付き、修正が必要だと提言した。とは言っても彼にはある事情があって本の世界に入ることはできない。それは彼がすでに故人であるにも関わらずこうして生きた人間としてこの場にいることからしても分かるだろう。
いやそれよりも。何よりも。どうして俺は、こうやってアンデルセンと対峙しているんだ。これがまだVRの続きだとは到底思えない。だって靴の裏に感じる柔らかい絨毯の感触も、鼻腔をくすぐる本の香りも、目の前にいる人間の体温も。全てがあまりにもリアルだったのだ。
「あの、つかぬ事をお聞きしますが」
「手短にな」
「ここは、もしかして……アケルナル……?」
「そうだ。ふん、自分の置かれた立場がよくわかっているみたいだな」
どうかそうあらないでくれ、と願った言葉はあっさりと肯定され、呆然としている俺の前でアンデルセンはばさりと羽織っていたマントを翻した。
「ようこそ、イエヤス・フジムラ。我がアケルナルへ。君を歓迎しよう……まあ、決して喜ばしい状況ではないけどな」
「そんな……まさか……」
国際文化保護機関、通称ICPOに属する文学専属部署、それが通称「アケルナル」だ。ゲームの中で主人公はここの新任職員として配属される。それまで普通の大学生だった主人公が、ある日突然呼び出されたのがこのアケルナルだった。世界広しといえど、物語の中に入っていける人間はそういない。アケルナルではそのための人員を日々育成し、調査を進めていた。
しかし、事態は急転する。それまで侵食予定のなかった書物まで急速に侵され始めたのだ。その速さはアケルナルのプロフェッショルをもってしても追いつかず、結果として一時は本部までの侵入を許してしまう。侵食された結果職員の八割が死亡、もしくは再起不能に陥ってしまい、残されたのはわずか十数人だった。しかしここで諦めてしまったら世界はあっけなく滅びてしまう。それだけは、何があっても許されない。
そうして選ばれたのが、どこにでもいる平凡な主人公だったのだ。適性はかろうじてある、訓練は実地で、たった一つ与えられた命令は「死ぬな」ということ。それだけで、主人公は長い長い旅に出ることになる。
これが『絵のない絵本』のプロローグだ。そしてそれが始まるのは、まさにこの古めかしい図書館だった。アンデルセンによって状況を説明され、いかに今危険な立場なのか、そして主人公しか頼りになる人がいないか。そう説明される。今の俺はまさにそれだ。同じことをされている。
まさか、そんな。
「そんな顔をするな。俺だって不安で仕方ないのだ。お前みたいな素人にこの世を託すなんて」
「……待ってくれ」
「ん?」
状況が飲み込めない。どういうことだ。俺は、なんでこんなところにいる。だってそれまで俺は、令さんと一緒にビッグサイトにいた。いたはずだ。それなのにまるでそのことの方が夢だったかのように、現状はおとぎ話めいている。だいたいなんだよ、ゲームの世界に入ってしまうなんて。ラノベか? ラノベなのか? 最近はやりの転生もの? いや俺死んでないけど。でもそんな、読み飽きられてテンプレートと化した話なんて面白いわけあるか。どうせタイトルはくそ長いんだろ? 忙しい人のためのラノベ、みたいになんのひねりもない長ったらしいタイトルになるんだろう? くそ、そんな駄作の主人公なんて死んでも嫌だ!
「なーにをぶつぶつ言っているんだ」
「あ、いや、こっちの話です」
「ふん。余裕だな。まあいい。こっちは時間がないんだ。早く用意をしろ」
「用意って、何」
つり目がちな目をますますつりあげて、アンデルセンは苦々しげに吐き出した。ついでに黒い万年筆をこちらに放り投げてくる。落とさないよう慌てて掴んだ。そこにはアケルナルのシンボルと、俺の名前が刻印されていた。
「仕事だ。イエヤス。お前の初任務だな」
「……えっ?」
待って、俺、まだ心の準備ができてないんだけど!?
そんな叫びも聞き入れられず、早足で図書館をあとにするアンデルセンに置いて行かれないよう、俺は小走りで追いかけた。
その時、俺は思い出すべきだったのだ。あのゲームで一体この後何が起こったのか。何が、起きるのか。俺は確かに知っているはずだったのに。そんなことすっぽり頭から抜けてしまうほど、自分の置かれた現実に混乱していた。
例えばこれがゲームのチュートリアルだったら、きっと多くの人はスキップしていただろう。時間のない現代人はこんな本筋と関係ないところは見向きもしない。わかりやすく、総会で、単純明快なものを好む。だからこういう、名前も顔もわからない誰かの苦悩なんて理解しようとしないんだろう。
これから俺が迎える時間というのも、きっとそうなのかもしれない。誰の目にも止まらず、誰にも気にされず、俺が望むような「目立たない」生活になるのかもしれない。でも、それでもきっと、俺は得るものがある。そうでないとこんな世界に来た意味がわからない。世界を守るとか、誰かのためとか、そういう大層な理由なんてない。俺が俺として、今目の前に差し出されたことをこなすことだけが俺の生きる理由だったのだ。
「ったく、重課金していたゲームの主人公になるなんて……そんなのありかよ!」
こうして俺の物語は幕を開けたのだった。