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薔薇と太陽

 空は涙が出るほどに、青く澄んでいた。太陽は燦々と照りつけ、足元に茂る草は柔らかくそよいでいる。気温はまさに春の陽気で暑すぎもせず寒すぎもしない。時折心地よく吹いてくる風が頬を撫でて、そのついでとばかりに両手に抱えていた花束も揺らす。ふわりと漂った甘い芳香に思わずうっとりと目を閉じた。

 全く、これほどまで清々しく晴れるなんて。本当に貴女は。どこまで行っても変わらないのね。いつだって前を向いて、いつだって晴渡るような笑顔で、いつだって私に光を与えてくれていた。

「一年ぶり、かしら。お久しぶりね」

 いくら呼びかけても答えてくれないけれど、それでも私はいつもこうやって声をかける。今までと何も変わらないように。まるで彼女が、今もまだ生きているかのように。私は今日も彼女の名前を呼ぶ。

「アンナさん。今年もよく晴れましたよ。雲ひとつないお天気で日向ぼっこにはうってつけなんです。貴女はきっと嬉しくなって、走り出してしまうかもしれませんね」

 墓標に積もっていたゴミを一つずつ拾い上げながら言葉を続ける。古い枯葉、新しい若葉、命は終わりまた始まる。散っていった葉っぱを集めながら今から数十年前に彼女と交わした会話を思い出した。

『レイラ、貴女ね、もう少し自分に自信を持ちなさいな。そんな今にも落っこちそうな葉っぱみたいにしょげ込んじゃって』

 そうだ、あれは確か私の結婚が決まった日のことだ。まだほんの十四歳だったというのに、父親からの言いつけで話したことも会ったこともない人と結婚することが決まったのだ。私にそれを断ることはもちろんできないし、二つ返事で引き受けるしかなかった。それしか方法はなかった。

 それでも本当は胸が引き裂かれるほどに嫌だった。どうして私は自分が好きになった人と添い遂げることができないのか。どうして家のために知らない人との間に子供を作らないといけないのか。それが「家族」だというのなら、そんなもの、私は捨ててしまいたい。莫大な財産も、広大な敷地も、栄えある名声も。そんなもの、私にはどれも重たいものばかりだ。

 みっともないけれど、そんな風に弱音を吐いた時にアンナさんは私の頬をぐっとつかんで言ったのだ。「自信を持て」と。

『いいこと、貴女は女に生まれたの。それで道具みたいに扱われることが嫌だと思うかもしれない。それでもね、貴女だからできることだってあるはずよ? 悔しいならギャフンと言わせてればいいのよ。女にしかできない方法でね。それで言ってやりなさいな』

「あんたたちが下に見ていた女に、こんな翻弄されてしまって。いい気味ですこと」

 記憶の中で響く彼女の声に合わせて小さく呟く。その響きがおもしろくて小さく笑ってしまう。なんて彼女らしいのだろう。女であることをいつも誇っていた。男性に守られ様なんてこれっぽっちも思っていなかった。自分の人生は自分のものなんだから、この手で切り開くのだと言っていつも前を向いていた。

 どこまでも眩しい人だった。いつも目の前のことに全力だった。この国で初めて、女性社長になった。初めは大量のバッシングを受けてもそれ以上の結果でいつも返していた。従業員は全員女性、女性のための会社だった。もちろんそんな目立つことをするからメディアも彼女を追いかけていた。

 ブラウン管に映る彼女は白黒だったけれど、自慢の赤毛は綺麗にカールされていたし勝気な切れ長の瞳は画面越しでもわかるくらい爛々と輝いていた。それを屋敷のリビングで見るとき、私は彼女の隣にまた立つことができるのだろうかと思っていた。

 彼女はもう、遠い人になってしまったと思ったのだ。私の助けなんていらない、私なんて見向きもしない。そんな暇もなく、彼女は一人で歩いていけるのだと。それは同じ「女性」としては嬉しかったけれど旧友としてはどこか寂しくも思っていた。

「貴女は昔から嘘が下手くそでしたものね。あのときだって本当はお辛かったのでしょう? 真っ青な顔色を化粧で隠して、疲れを宝石で欺かせて、怯えを笑顔で拭い去って。貴女はいつも強くあろうとした」

 突然の辞任発表をした彼女は、その足で私の屋敷に訪れた。クラシックカーを走らせて何の連絡もなしにやって来たけれど、会見映像を見ていた私は「ああ、きっとここに来るのだろうな」と確信めいたことを思っていたのだ。だから急いで蜂蜜をたっぷり入れた濃いめの紅茶を作り、バターとジャムが練りこまれたクッキーを用意して待っていたのだ。

 そしてその予想通り、会見からちょうど一時間経った頃に彼女はやってきた。フロントガラス越しに見えたこわばった表情が今でも目に焼き付いている。ああ、太陽がかげってしまったと思ったことも覚えている。それくらい彼女は憔悴しきっていた。ふらつく足で外に出たアンナさんは何も言わず私を抱きしめ、それから「レイラ」と私の名前を呼んだ。その響きだけで、どれほど私は嬉しかったことか。何て甘い響きなんだろう。彼女がその言葉を口にするだけで、私の名前を呼ぶだけで、どれほど私は幸せになれるだろう。彼女の持つ不思議な魅力は出会って三十年経ったその時も変わってはいなかった。

 暖かい屋敷に招き入れ、差し出した紅茶をたっぷり三杯飲み干した後にアンナさんは重苦しそうに唇を開いた。

『……私、もう直ぐ死ぬんだそうよ』

『そうだと、思っていたわ』

『驚かないのね』

『ええ。それよりも、寂しいという方が強いかしら』

 彼女が自分の意思で後退しようとするなんて、きっとそれくらいしか理由がないと思っていたからだ。自分が突然いなくなっても大丈夫なように、まだ生きている間に職を譲った。彼女は生涯誰とも結婚せず、子供はいなかった。それでも彼女を慕う人々は多くいたし、後継者もきちんと育てていたそうだ。

 だから何も思い残すことはない。自分はやるべきことをちゃんとやった。だからもう、後悔なんてあるはずがない。そう思って執務室を出て、会見に臨んだそうだ。なんて誇らしく、なんて凛々しいのだろうか。会見の際、彼女が発した言葉に何の迷いもなかった。その目はずっと未来を見つめていた。これから先、きっと自分の目では見られないかもしれないけれど、それでも必ず訪れるであろう輝かしき未来を。彼女はずっと見つめていた。

『それでもね。ずっと私の中に引っかかるものがあったのよ。遺していく家族はいない。会社もきっと大丈夫。なのに、なんでかしらね。このままじゃ旅立てないと思ったの』

『アンナさん……』

 それが私だったのねと、言うことはなかった。言わなくてもわかったからだ。全て伝わってきた。代わりにそっと手を伸ばして彼女の手を握った。

 記憶の中にあった、ふっくらとして大きかった手はいつの間にか乾燥してひび割れていた。かさついて、肉もそげ、ああ、ああ、いつの間に彼女はこんなにも死に近づいてしまったのだろうかと、その事実に涙が溢れそうだった。

 それでもまだ泣いてはいけない。だってまだ、彼女は私の前にいるのだから。手を伸ばせば触れられるのだから。こんなにも彼女は、命を燃やしているのだから。

 だから私もまだ泣いてはいけない。そう、笑おう。いつまでも。彼女が安心して旅立てるその日まで。絶対に涙はこぼさない。

 震える唇を無理やり動かす。引きつりながらも笑顔の形を作った口からは自分でも笑ってしまうくらいみっともない声があふれた。

『いつでも会いに来てくださる? もうお仕事もないのだから、昔みたいにまた遊べるのでしょう?』

『遊ぶって、レイラ。私は病気で』

『だからこうやってお話をしましょうよ。私は外で流行っているような遊びを知らないから、こんな方法しかできませんけれど。でも、いいでしょう?』

 それからアンナさんは困ったような、嬉しいような、泣き出しそうな顔で笑って『親友の頼みなら、しかたないね』と言ったのだ。

 それから一ヶ月も経たずにアンナさんは一人で旅立っていった。誰にも見取られることなく、誰にも気づかれることなく、私に挨拶もせず。眠るように息を引き取っていった。

「また遊んでくださると約束したのに。ひどい方よね、貴女も」

 墓標の前に抱えていた花束を置く。彼女が好きだった真っ赤な薔薇だ。こんな暗くて悲しい場所には不釣り合いなほどに美しく咲き誇っている。毎年この日、アンナさんが居なくなった日には一人でここに来ていた。そしていつも、必ず十本の赤い薔薇を持って。それも今日で十回目だ。もうそんなに時間が経ってしまったのか。彼女と出会ってから四十年。それでも、今でも一緒に過ごした時間を忘れることはない。あの日々は確かに私の道を照らす光なのだ。

 ドレスの裾が汚れるのも構わずその場にしゃがみ込む。左手でアンナ・オフィーリと刻まれた文字をなぞった。

「アンナさん。私ね、あなたに一つだけ嘘をついたの。気づいていたかしら」

 結婚をすると決まった時、どうしてそんなに結婚が嫌なのかと言われた時。私はとっさに嘘をついた。「自分が誰かの奥さんになれる自信がないから」と、いかにもそれらしい嘘を。

 それを彼女は疑うこともなく聞いてくれたけれど。

「私、貴女と親友だなんて思ったことは一度もないんです。誰よりも近しくて、誰よりも愛しくて、誰よりも恋い焦がれていた。それは親友に対して抱く感情なのかしら。夫にさえここまで劣情を抱いたこともないのに」

 本当はね。アンナさん。私、貴女と生きたかった。貴女の隣にずっと立っていたかった。テレビや新聞で貴女の姿を見るたびに、どうして私はその場に居られないのだろうかと恨んだのよ。でも「親友」として応援しないといけないって、ずっと自分に言い聞かせてきた。

 でもそれも、今日でおしまい。

「ごめんなさいね、アンナさん。私、本当はずっと、貴女のことを」

 どうしようも無いほどに、愛していたんです。

 涙で詰まった言葉はもうそれ以上形にならず、喉の奥に引っかかったままへしゃげてしまった。彼女が亡くなって初めて流した涙は優しく吹き付ける風に飛ばされて、ちょうど百本目の薔薇に降り注いだ。

 底抜けに明るい太陽が、ただ静かにひとりぼっちの私を照らし続けていた。

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