愛されることの何ぞ嬉しき。愛することの何ぞ嬉しき。 武者小路実篤
偽星観測
外が暑いから、と。彼女は言った。
確かに気温は三十度近くて、蝉の声は四方八方から聞こえてくる。燦々と照りつける太陽は容赦なくて、風は気持ちばかり吹くけれど何とも生ぬるい。薄いブラウスが肌に張り付いて気持ちが悪かったけれど、隣を歩く彼女の体温は不思議と心地よかった。
夏の福岡は、やっぱり暑い。九州だから暖かいなんて嘘っぱちだけど、夏はどこに行っても暑いのだ。アスファルトからの照り返しで足の裏がジリジリ痛む。
そうだね、暑いね、なんて当たり障りないことを返したけれど、果たして私の声はいつも通りだろうか。喉の奥がヒリヒリと痛む。喉が渇いているのだ。だって今日は、真夏日だから。うん、きっとそう。博多駅の駅ビルでフルーツジュースを飲んだけれど、それでもやっぱり、暑いものは暑い。別に久しぶりに会えたからとか、そういうことではない。
「プラネタリウムなんて。珍しいね」
「そうですかね? まあ、私はそんなにロマンチストやないんですけどね」
星なんて。ただ光の塊が空に浮かんでいるだけだ。数億光年先に浮かんでいる石の塊がたまたま目に映っただけで。別にそんな、それに何か意味があるなんて思っちゃあいない。
でも貴女が「星が好き」だなんて言うから。私はつい、タブレットで調べてしまったのだ。お金があまりかからなくて、ついでに涼しくて、人も少ないような場所を。
「うちの地元にもプラネタリウムがあるんだよね」
「へぇ」
「へぇって。興味なさそう」
「そげんこと……そんなこと、ないですよ」
つい地元の方言が出てしまって、慌てていつもの言葉遣いに戻す。ネット上ではキチンとした敬語だから、やっぱりここでも同じようにしないと。でも周りが耳に馴染んだ福岡の言葉だからどうしてもそれに引きずられてしまう。
せっかく遠くから旅行に来てくれたのだ。ちゃんと案内しなければ。
「いいよ、方言」
「え?」
そう言って、彼女は柔らかく笑った。その表情にぐっと胸の奥が締め付けられる。普段はキュッとつり上がっている目尻が、笑うと柔らかく垂れるのだ。その差にいつも私は、バカみたいに、泣きそうなほどに愛おしいと思ってしまう。
そんなことを思っていてはいけない。だって彼女は、私の「友人」なのだ。いつまでも、どこまでも、私たちは「友人」としていなければいけない。
「ひなちゃんは、いっつも敬語だから。そうやって素が出てくれたら私は嬉しいな」
「でも……方言、結構きついですよ」
「うん。でもいい。私は好きだよ」
だから。そうやって、好きというたびに。私は何度自分の恋心を殺したことか。貴女はきっとわかっていない。
「さちさんは」
「ん?」
「……なんでも、ないです」
「えー」
「なんでも! ないです!」
教えてよ、なんて言いながら、私の腕にすがってくる。その度に彼女の髪から甘い香りがして、また私の胸がぐうと痛んだ。私はきっとこの香りを思い出に何日も過ごすのだ。さちさんとの思い出にすがって、何日も、何ヶ月も過ごすのだ。そんなこと彼女は何も知らずに。
そもそもこの旅行だってきっかけは突然だった。うちの地元で行われるお祭りに行ってみたいから、だからもし里帰りすることがあれば付いて行っていいかなんて。わざわざ東京に住む私にそう連絡してきたのはさちさんだった。
その言葉にホイホイ乗っかって了承したのは確かに過去の私で、そのために有給まで使って休みをもぎ取ったのも確かに私だ。そこまでして彼女と一緒にどこかに行きたかったのは、多分、一種の執着なんだと思う。顔も声もわからないネットでの関係じゃ嫌だから。だから、こうやって直接会いたいと思ったのだ。彼女がどう思っているかは知らないけれど。
「で? どこに行けばいいの?」
「えっと。多分ここをまっすぐ行って……その建物の、四階?」
「地元なのに詳しくないんだね」
「そりゃまあ、そうですよ。私の地元はもっと違うところだし」
「そうなんだ。じゃあ、私のためにわざわざ来てくれたんだね。ホテルまで取ってくれて」
「……そう、ですね」
もともと実家に帰る用事なんてないのだ。いきなり帰ったところで両親に心配される。それに彼女に会うために片道一時間半もかけて一時間に一本しかこない電車に乗るくらいなら、同じホテルを取ったほうが楽だ。安上がりだから、と行ってツインにしたのは半分くらい下心があったけれど、ダブルにしなかったのは残り半分の理性が働いたからだ。
さすがにそれは、できっこない。
「ひーなちゃん」
「なんですか」
「んー?」
さっきまで暑い暑いと言っていたのに、さちさんは私の腕にしがみついたままだ。おまけに何を考えているのか肩口に額をこすりつけてくる。私のほうが十センチくらい身長が高いせいでちょうど額が肩に当たるのだ。お互い汗をかいているだろうに、それを気にもとめず肩のあたりにじゃれついてくる。
ああ、もう。本当に。何だって言うんだ。そうやって私のことを年下の友人と思って。いつまでもからかうのだ。面白いくらい表情に出てしまうから嫌なのに。平常心を保つために必死になって奥歯を噛み締めているのに。さちさんは、何もわかっていない。
「歩きにくいです」
「つめたーい」
「外はくそ暑いんですから。ちょうどいいでしょ」
そうやって、何事もないと言わんばかりに私は足を速める。息を漏らさないように飲み込まないと涙がこぼれそうだった。彼女の長い髪が腕をなぞる。柔らかくて、くすぐったくて、その場で叫びだしたくなるほどに、愛おしかった。
そんなことを言っていたらいつの間にかおめあての場所はすぐ目の前にあった。ビルの中にある、小さなプラネタリウム。平日の真昼間なんて誰もいるわけがない。がらんとしたホールには暇そうにした受付の女性が座っているだけだった。
大人二人分のチケットを買って指示された場所へと向かう。私たち以外には誰もいなくて、本当にここでいいのか少しだけ不安になる。きっと今頃外では多くの人が汗を流して働いているのだろう。私だって同じような日々を過ごすはずだった。こうやって、さちさんに誘われなければこんな場所には一生来ることはなかっただろう。そもそも地元の、しかも穴場みたいなプラネタリウムに。行くはずなんて、ない。
「誰もいないね」
「そりゃ、平日ですからね」
「そういうもの?」
「そういうものです」
係員に促されてプラネタリウムに足を向ける。本当に私たちしかいないみたいだ。中は一層薄暗くて、肌の奥を刺されるように涼しく感じた。
一番見やすいのはやはり中央に近いところだそうだ。幸いにも私たち以外に誰か来る気配はない。それならばと、特等席に座ろうとして。そこではたと気がついた。
「あの、これ」
「ん?」
そこは、なぜか二人で座るように作られたペアシートだった。
簡単に言うと肘置きが存在せず、二つ分のシートがセットになっている。やや広めに作られているおかげで女性二人が座る分にはゆとりが十分にあるのだろう。でも、これは。なんだろう、どう考えても距離が近すぎる。
だって腕なんてどこにおいても触れてしまうではないか。こうやって服越しに触れられるだけでも胸が張り裂けそうだというのに。直接その肌に当たってしまうだなんて。私に、できっこない。
「えっと、ここ、ですか」
「見やすいじゃん」
「いやそうですけど」
「せっかくだよ?」
「……そうですけど」
こうなるとさちさんは一歩も引けを取らない。そういう性格だということは、長くもないが短くもない付き合いの中でわかっていた。もちろんネット上で、ではあるが。
しぶしぶとペアシートに座って、せめてもの抵抗に体の隣にカバンを置くと「これ邪魔」と言ってあっけなく地面に放り投げられた。あ、はい。そういうね。魂胆はバレバレですか。
なんだか嬉しそうにニコニコしているさちさんを見ていると私も「まあいいか」なんて思ってしまって、そういえば星座なんでしたっけ、とかどうでもいいことを聞いてしまう。そんなの誕生日から考えればすぐわかるのに。なぜか彼女の声を聞いていたくて、わかりきったことを聞いてしまう。私は彼女の声が好きなのだ。高すぎもせず、低すぎもしない。でも柔らかくて芯のある彼女の声がどうしようもなく好きだ。だから、こうやって無意味だと思われるような質問をずっとしてしまう。
本当は内容なんてどうでもいいのだ。いつまでもこの耳に彼女の声が響いていれば。それだけで、もう、十分なのだ。
「ねえ、ひなちゃん」
「なんですか?」
「あのね、私」
何か言いたそうにさちさんが口を開いたタイミングで、場内が暗くなった。そろそろプログラムが始まるのだ。周りには誰もいないとわかっているけれど、無意識のうちにぐっと口を閉じて上を見上げてしまう。
そろそろ季節外れの天体観測の始まりだ。
(何を、言おうとしたんだろう)
ぼんやりと映し出された星々を眺めながら、彼女の紡ごうとした言葉の先を考える。この状況で何を言うのだろうか。実は彼氏がいるとか? 何なら結婚までしちゃうとか? それならそれで私は諦めがつく。何のかって、まあ、失恋ということになるけれど。別に叶うはずないと思っていたから今更傷ついたりはしない。多少やけ酒をする程度で。全く、これっぽっちも。傷ついたりはしない。
むしろこれ以外の展開が想像つかない。彼女が仕事を変えるにしても別に今じゃあなくていい。というより、ただの友人である私に言う必要はない。
(終わったら、聞いてみようか)
すぐそばにある体温を感じながらゆったりと瞬きをする。くるりと回る星の動きに視線を合わせてみると、何て穏やかなものかと驚いてしまう。いつも忙しなく働いている自分がバカみたいに、空ではこうやって穏やかに、星は流れている。
なんだか自分の抱えて居る悩みが随分とちっぽけなものに思えた。今隣にあるこの体温が感じられたら、もうそれでいいんじゃあないのだろうか。別にそれがずっととは言わなくとも、この人生の中でほんの少しでも私の近くにいてくれたら、もうそれで十分なんじゃあないのか。そう思わされていた。
だって、無理な話なのだ。私は女性で、彼女も女性で。私がこうやって普通じゃあない感情を抱いてしまったことですでにいびつなものになってしまっている。だったらこの現状に満足して納得するしかない。これ以上、歪を大きくしてしまうことに何のメリットもない。
(間違っている、とは、思いたくないけれど)
誰かを愛することに間違いがあるのかと言われたら、きっとそんなものありえないと言えるだろう。誰が誰を好きになってもいいはずだ。でも私の場合はきっと違う。だってその理論は異性間でしか成り立たないからだ。男性が女性を、もしくは女性が男性を愛することに何の隔たりもない。
でも私たちは、どちらも女性だ。女性が女性を愛するなんて。そんなの、あり得るのだろうか。もしもあるのであれば、それはなんて奇跡なんだろう。そんな奇跡が私の上に降り注ぐなんて思いもしていない。
目の奥がじわりと熱くなる。口元が戦慄き、喉がぐうと鳴った。そうだ、ありえないのだ。私が彼女のことを好きになっても、彼女が私のことを好きになるなんて。そんなこと、それこそ天地がひっくり返ってもありえない。
偽物の星が頭上に瞬く。ああ、ああ、まるでそれは私の抱く感情と同じだと思って、そんな偽りの「愛情」をどうすれば殺すことができるのかと頰を伝う涙を喉元まで垂れ流した。
偽りの感情だ。だったら同じ偽物同士、せめてこれくらいは聞いてくれよ。夜空に浮かぶことすらできなかったつくられた光よ。私の願いを、私の劣情を。どうか汲み取ってくれ。そうしたらきっと、私のこの涙も無駄にはならないから。
汗と、コロンと、それから飲みかけのクランベリージュースの香りを思いっきり吸い込みながら、偽物の星にそう願った。
エブリスタに投稿済み。”三行から参加できる 超・妄想コンテスト 第49回 「夜空への願い事」をお題に物語を書こう”投稿作品