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小指への祈り

 目が覚めて、ああ、また戦いが始まると息を飲んだ。私の一日はいつもこの言葉から始まる。「負けてたまるか」と。

 一体貴女は何と戦っているのかとよく聞かれることがある。私はそこまで戦闘態勢がにじみ出ているのだろうか。そうだとしたら、好都合。ふわふわと風にそよぐ花になんて私はなりたくない。綺麗なだけで、何にもならないような。そんなものにはなりたくなかった。どうせなら棘まみれで、硬くて太くて、決して倒れることのないような。大木にはなれないにしても、無骨でもなんでもいいから、自分のこの足で立っていたかった。

 まだ日が昇る前には目を覚まし、世界中の情報に手早く目を通す。ありとあらゆる国の新聞を読んで、必要があればスクラップしてチェックを入れる。気になることがあれば本棚から本を取り出して調べていくし、それでも分からなければ懇意の専門家にその場で手紙を書く。

 ネグリジェの上からガウンを羽織っただけで、紅茶だってまだ飲んでいない。それでも私は、こうせずにはいられない。頭の中にはたくさんのアイディアがある。その靄みたいなかけらを一つずつ丁寧に拾い上げ、磨き上げ、くっつけていくのだ。その作業が何とも言えずに楽しくて心地が良いのだ。

「アンナ様、おはようございます」

「どうぞ、入って」

「失礼します」

 秘書でありマネージャーのクレアの声がドアの向こうから聞こえてきた。彼女の声を聞くと、そろそろ出勤時間かと思い出させられる。毎朝七時、決まった時間に彼女は必ずやってくる。雨の日でも、風の日でも、嵐の日でさえも。短い髪をオールバックにして、綺麗な額をいつも見せて。そうやって彼女もまた、何かといつも戦っていた。

 今日は海のように青いスーツを着こなしている。太陽のように鮮やかな色をしたスカーフを巻いて、膝がちょうど隠れるくらいのタイトスカートを履いて、それから寸分違わない化粧をして。どこをどう見ても私の好み通りだった。

「今日の天気は晴れ、夜は少し冷え込むそうです。それからテレビの取材が一件と雑誌のインタビューが二件入っております」

「わかった。新しく入った子、アレクサンドラ、ですっけ。あの子とも面談をしないとね」

「しかしそんな時間は」

「何かを削ればあるでしょう。時間は作るものよ」

 東欧からの移民としてやってきたアレクサンドラはガリガリに痩せてちっぽけな体の癖に、瞳の色だけは誰よりも強く輝いていた。絶対に誰にも負けないと、そう言わんばかりにいつも何かを睨みつけていた。私はその瞳に惚れ込んで、大した話しもせずに採用を決めた。

 とはいえ、仕事ができるかどうかはまた別問題だ。一人前になるように一から始動しなくては。ありがたいことに会社の名前が売れるようになったし、私の知名度も上がっている。忙しいことはいいことだけど、その分従業員達との時間は減ってしまう。それだけは絶対に、したくなかった。彼女達は部下ではない、ともに戦う戦士達なのだ。誰かが上で誰かが下なんてものはない。それぞれが見据える「敵」に向かって、戦い続けるだけなのだ。

「クレア」

「はい」

「紅茶、淹れてもらえるかしら」

「かしこまりました」

 着替えるために立ち上がりクレアをキッチンに追いやる。眼鏡を外して目頭を押さえると、ずしりと重たい感じがした。さすがに休みなしで走り続けると疲労はたまっていく。ちゃんと休まないと、と思うけれどそんな暇があれば仕事をしていたいとも思う。結局、私は何かしていないと心が死んでしまうのだ。

 クローゼットを開けて色とりどりのスーツを眺める。今日は晴れだと言っていた。夜は寒い、ということは薄手のコートも持って行こう。

 さっさとネグリジェを脱ぎ捨てて全裸になる。膝の裏、脇腹、そして谷間に香水をふりかける。サンプルとしてたくさんのフレグランスをもらうけれど、やはり肌に乗せるのはこれが一番だ。女性の調合師が世間からのバッシングの中生み出した、唯一の作品。甘すぎず、かといって男性物とも違う。女性が一人で立ち上がるための香りだ。

 それから下着を身につけて、スーツを着込んでいく。かっちりとしたスーツは私の背筋をしゃんと伸ばしてくれた。いつまでも私は幼くて、弱くて、小さなアンナ・オフィーリでいてはいけないのだ。誰よりも前に居て、強くて、輝いていなくてはいけない。そのためだったらなんでもする。

 それから化粧水を肌にふりかけ、唇にルージュを塗る。瞼には明るい色を、頰には薔薇色を。もともと印象の強い目元をしていることが役に立った。この目がある限り私は弱くは見られない。太く濃くアイラインを引いて、これで完成。

「スーツが男の戦闘服なら、化粧は女の剣よ」

 そう言ったのは確かに私だ。男のために美しくあるな、自分のために綺麗であれ。誰かのためではない、あくまでも、どこまでも、すべては自分のために。それこそが私の会社の理念だった。

 最後に髪をざっくりとまとめる。きつくうねる髪は、今日も光を受けて緋色に染まっていた。昔はこの色が嫌だったけれど、私の印象を作るにはちょうどいい。決して隙を見せず、強くあるためには。私は自分の持ちうる全てのものを使うしかなかった。

 

「アンナ様、紅茶がはいりました」

「ありがとう。そこに置いておいてちょうだい」

「はい」

 化粧台に置いていたピアスを耳につける。スーツの色に合わせてルビーの石がはめられた、大きなピアスだ。着飾る喜びを忘れてはいけない。惰性で飾るのではない。ゴールドの腕時計と、スーツの襟に大きなブローチ。どこにいてもすぐに私だとわかるように、とにかく目立つものを私は身につけていた。

 人は私を、心のない女だと言う。女のくせに、男のように働き、男を馬鹿にしようとしている。生意気で、高慢で、可愛げがない。多くの人はそう言った。

 だったらなんだと、私は思う。女だからなんだって言うんだ。男の何が偉いんだ。たった一度の人生を、好きに生きて何が悪い。誰かが他人の人生に口出しできるほど偉いというのか。そんな奴がいるのなら、私がぶん殴ってやる。今に見ていろ。いつか絶対、あんたたちが下に見ていた女に、こんな翻弄されてしまって。いい気味ですこと、と。高笑いをしてあげる。

 その思いだけでここまでやってきた。疲労で真っ青になった顔色を化粧で隠して、やつれた体を宝石で欺かせて、怯えを笑顔で拭い去って。私はいつも強くあろうとした。そうでもしないと、怖くて怖くて竦み上がってしまいそうになるのだ。たった一人、足元から崩れていく崖に立っているような気持ちになる。それを追い払うように、左手の小指に最後の武器を身につけた。

 

「アンナ様、あの」

「何かしら」

「いえ、ずっと前から気になっていたのですが」

「ん?」

 クレアが私の左手をずっと見ていた。視線の先には今はめたばかりの指輪がある。まあ、そうなるのも仕方がないだろう。私が身につけるものはどれも大振りで派手なものだ。女性のシンボルになるように、分かりやすく高価なものを選んでいた。でもこの指輪だけは別だ。市場に行けばすぐに手に入りそうな、安価でシンプルなシルバーリング。飾りもない、複雑な装飾もない。ただ何もないことだけがその指輪の存在意義のように、ただ静かに鎮座していた。

「これはね、お守りなの」

「お守り?」

「そう。私がいつだって、前を向けるためのね」

「アンナ様がそういうものを信じているなんて、意外でした」

「そうかしら……いや、そうね。これは多分、私が私で居られるための、最後の砦なのかもしれない」

 わけがわからないといった顔でこちらを見ていた。きっと言葉の本意がわからないのだろう。それならそれでいい。私だけが知っていれば、十分なのだ。

 この指輪を買ったのは私が十四歳の頃。これが自由に街を歩ける最後の日だからといって一緒に市場に繰り出した時のことだ。何か記念になるものを買おうと言って、それならいつでも身につけられるものにすることにした。ブレスレットは文字を書くとき邪魔になる。ネックレスは、首に絡まると怖いかしら。それなら、小さくて邪魔にならないものにしましょう。

 そう言って、白くて細い指がさしたのが。

『指輪? だって、あなた』

『でも私が明日はめられるのは、左手の薬指よ? それ以外の指に何をつけても私の自由じゃなくて?』

『そう、かもしれない、けど』

『はい決まり! ふふ、どれにしましょうか。ね、アンナさん』

 その日から、私はこの指輪を身につけない日はなかった。中指にはめていた指輪は、私が成長するにつれてどんどん外側に追いやられていった。今では一番細い小指にしかはめられない。何度も手入れをして、メッキを重ねて、傷がついたら修理に出して。そうやってずっと、もう二十年以上身につけていた。

 この指輪を身につけるといつも思い出す。泣きながら「結婚したくない」とつぶやいた小さな肩を。絶望に明け暮れた大きな瞳を。自分の意思はどこにもなく、家のために使われるだけの彼女を私は守ってあげることができなかった。私にはそんな力はなかったのだ。たった一人、大切な人を守ることができななんて。誰よりも大事で、誰よりも愛おしい存在なのに。私は守れなかった。

 だからこの会社を立ち上げたのだ。女性が女性として、自分のしたいことを思う存分できるように。そのために私はこの命を捧げようと決めた。その決断ができたのも、今でも歩き続けられているのは、全部この指輪のおかげだった。素朴で美しい花もこの世にあるのだと思わせてくれた。小さな花だって地面に根を張り立っているのだと。そう教えてくれたのは彼女だった。目の前に立つクレアは確かに美人で、いつも着飾っている。でもレイラはいつだって、自然だった。嬉ければ笑い、悲しければ泣いた。そのコロコロと変わる表情が、私は好きだったのだ。

​ その小さな花を守りたい。ひどい嵐も、冷たい雨も、全部私が遮ってあげる。

 温くなった紅茶を一息に飲み干して口紅を直す。大きく息を吸って、そして思い切り吐き出した。頭の中がクリアになっていく。左手の小指から、熱が生まれてくる。うん、私はまだ、戦える。

「さあ、行きましょう。今日も戦うわよ」

「はい」

 レイラ、聞こえているかしら。私は今日もちゃんと生きているわ。貴女が笑って過ごせるような世界を作るために。貴女が好きに生きられるような世の中を作るために。私は、今日も、負けてはいけない。どこまでも強く、どこまでも眩しく。貴女を照らす太陽になる。

 だから、どうか。レイラ。貴女のことを思い出して、祈らせるくらいは許してちょうだい。貴女のことを想うくらいは、許してちょうだい。それだけが私の、一人の人間であるアンナ・オフィーリとしての、たった一つの願いだった。

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