愛されることの何ぞ嬉しき。愛することの何ぞ嬉しき。 武者小路実篤
一生分のラブレター
人生を変えるほどの出会いがあるかと聞かれると、私は迷わずに「ある」と言えるだろう。そんな大げさなと笑われるかもしれないが、それでも私は胸を張って言える。私はこの人に出会って、人生が変わったのだと。
それまでずっと自分はヘテロだと思っていて、いつかどこかの誰かと結婚をするんだとばかり思っていた。今はまだ出会っていないだけで、きっとどこかで出会うのだと。そう、まるで白馬に乗った王子様が颯爽と現れるように。私の前にも来てくれるとばかり思っていた。
「現れたのは王子様じゃなくて、お姫様だったけどね」
そう呟いた自分の声が虚しく部屋に響く。大きな家具はまだ残っているのに一人居ないだけでこんなにも音は響くのか。私の半分くらいしか体重がなかったのに。そんなにもあの人は大きな存在だったのか。隣にいることがいつの間にか当たり前になっていて、いつまでも一緒にいると思っていて、私の右側から彼女がいなくなるなんて思ってもいなかった。
出会って十年、一緒に暮らし始めて八年。こう思ってしまうのも仕方がないのかもしれない。私たちはあまりにも、近くにいすぎたのだ。初めての頃は胸を高鳴らせていたことも、いつの間にかそれが当然になる。今すぐじゃあなくても、いつか言えばいいと思ってしまう。だって必ず私のところに帰ってくると信じきっていたからだ。いくらひどい喧嘩をしても、必ず私たちは大丈夫だと思っていた。この世に「必ず」なんてありはしないのに。そういうことをバカみたいに信じられるほど、私は幼かったし、彼女に甘えていた。
「私の方が年上なのに。本当、甘えてばっかりだったね」
全くよ、と彼女の拗ねた声が聞こえる気がした。あの子はいつだって素直でいい子で、そしてどこか子供っぽかった。普段、人前でははしっかりしているのに二人きりになると途端に甘え始める。いや、甘え下手だったからそのやり方はどこかぎこちなかったけれど。それでも、下手くそなりに私の方に歩み寄ってきていた。
それを可愛らしいと思っていたのは、きっと最初の一年くらいだ。それから先はだんだんと慣れ始めてしまって「こういうものか」と感じ始めた。お互いがお互いのやり方を学んでしまい、こうしたらこう返ってくるだろうと何となく察してしまった。それが悪いことではないのだろうけれど、いわゆるマンネリというものになってしまい、物足りなさを感じていたのも事実だった。
だから、一緒に暮らし始めた時は少しだけ安心した。このまま離ればなれだと私たちはいつの間にかまた「友達」に戻ってしまうかもしれないと感じていたからだ。不安になっていたと言ってもいい。必ず訪れるであろう「別れ」というものを、私はずっと見ないふりをしてきた。まだ見ぬ先に怯えていても仕方がない。今はとにかく、目の前のことをどうにかしなくては。そう思って、日々与えられるかすかなものを受け取っていた。
その頃私は大きな仕事を請け負っていて、それが成功すればキャリアもぐっと上がるかもしれないという時だった。付き合い始めてすぐの時にもらった仕事がうまくいき、その流れだったからやっと自分の努力が認められたという嬉しさと、前以上の成果を出さなくてはというプレッシャーがないまぜになっていたのだ。
「何かと比べないと評価できないなんて、そんなのおかしな話だって。いつも言っていたけれど。それは本当にそうなのかもしれないわね」
あの時私は、この子より絶対に私の方が忙しいし、大変だし、頑張っていると思っていた。自分の才能のなさや怠惰をそういう言葉で言い訳して、ないがしろにするという甘え方をして、それでも私は悪くないと。そう、信じていた。
でも本当は違ったのだ。彼女は、私の知らないところでたくさんのものを背負っていた。ありえないほどのストレスを抱え、重圧に耐え、そうして少しずつ、体を傷つけていた。私の八つ当たりを笑顔で受け止め、泣き言を慰め、不条理な怒りに謝罪をした。
『あなたのことを考えられなくて、本当にごめんなさい』と頭を下げる姿を見るたびに、ああ、やっぱり私は悪くなかったんだと安心していた。こんなのただのDVだ。あまりにも暴力的な振る舞いを、それでも彼女は受け入れようとしていた。
それでも限界がきていたのだろう。いつの頃からか、彼女は私に「愛している」と言わなくなった。毎日のように与えられていたその言葉は日に日に減っていき、気がついたら言われないことが当たり前になっていた。
そもそも私はそういうことを言わないタイプだったし、愛情表現だってしない方だった。だってそんなの恥ずかしいし柄じゃあない。それに言わなくたって分かるだろうと慢心していたのだ。最初にそう言っていたし、わかってもくれていた。私が「ありがとう」くらいしか返さなくても、彼女はいつだって飽きることなく、愛していると囁いていた。
でもそれも無くなって、私は彼女にいびつな形で依存し始め、果たしてこの関係は一体何なんだろうかと思うようになっていった。それでもこれが私たちの形で、きっと大丈夫だと思っていた。だって、今までだってこうやってきた。二人の間で起きたことは二人で解決してきて、きちんと向き合ってきたと思っていた。
それが完全に独りよがりな勘違いだったと気付かされたのは、彼女が職場で倒れたと電話が入った時だった。
『倒れたって……なんで』
『ストレスによる胃潰瘍、それから栄養失調ですね』
『ストレス……』
それから急いで家を出て病院に向かうこともできたはずだった。でも目の前には締め切りが近い仕事があって、今日中にある程度まで進めておかないと後が大変になると瞬時に思った。
ああ、今思えば、あの時何もかも投げ捨てて病院に行っていればよかった。仕事なんて事情を言えば何とでもなる。彼女以上に大切なものなんて他になかったはずなのに。もしも私の人生で後悔することがあるとしたらきっとあの瞬間だ。どうしてなりふり構わず走り出さなかったのだろう。あれほどまでに、私の人生を変えたあの子のために、何もしなかったんだろう。
「嫌味の一つくらい言ってくれたら私も気が楽だったのに」
そう、意味のない言葉をつぶやく。相変わらず声は静かに響いて消えていく。その沈黙に耐えきれなくて大きくため息をついた。いつまでも感傷に浸っている場合ではない。早くこの荷物をどうにかしないと。
彼女の名残を、消し去らないと。
「これは……ああ、一緒に買ったワンピースか。この花柄似合ってたなぁ」
クローゼットの奥から引っ張り出したレモン色のワンピースは、確か一昨年の夏に買ったものだ。病気と薬のせいで顔色が悪くみるみる痩せていく姿に胸を痛めて外に連れ出したのだ。その頃はもうふっくらとしていた体は骨と皮だけになっていて、風が吹けば折れてしまいそうなほどに細くなっていた。仕事だってもちろん出来なくて、入院することも増えてきた。
私がお見舞いに行くと「仕事があるんでしょう? 私なら大丈夫よ」と笑って言っていた。働くことの出来なくなった彼女の代わりに私が稼がないといけなくなり、仕事は常に山積みで寝る間も惜しんで働いている事を彼女は気がついていたのだ。だから、いつもその言葉に甘えて数十分滞在したらすぐに家に帰っていた。どうせまた会える。数日したら、またここに帰ってくる。だからその時でいいかと。そう思っていた。
「すぐに帰ってくるって、言ってたのに」
まだほのかに香水の香りがするワンピースを抱きしめる。数日だったものが、いつの頃からか数週間になり、数ヶ月になり、私は一人で暮らすことに慣れてしまうようになった。一人で起きて、一人でご飯を食べて、一人で寝て。このベッドはこんなにも大きかっただろうかと思いながら眠っていたけれど、それでもまた、いつかここで一緒に横になるんだと信じていた。そう、信じたかった。
でもそれは結局叶うことがなく、或る日突然、彼女は朝目覚めることがなくなった。眠ったまま呼吸が止まり、幸せな夢を見たまま命を終えた。誰にも看取られず、誰にも気づかれず、一人で勝手に去っていった。
不思議と、涙は出なかった。
ただしくしくと胸が痛み、ただじわじわと悲しみが広がり、気がついたら通夜も葬儀も終わっていた。この数日、自分が何を食べたのかよく覚えていないし、何をしていたのかも定かではない。仕事なんて手につかなかったからパソコンだって開いていない。ただ、誰もいない部屋で一日中椅子に座り続けていた。でもそれじゃあいけないと思い、彼女の荷物を整理するために立ち上がったのが今から数時間前のことだった。
「私には似合わないし……売るのもなぁ。どうしよう」
保留にしよう、とダンボールに詰めてまたクローゼットの中身を漁る。洋服や小物がたくさん残されていて、まるで今でも彼女がまだ生きているような気になってくる。もう、あの子はこの世にはいないというのに。
目の奥がぐっと熱くなる。それを慌てて拭い、近くにあった箱に手を伸ばした。今までに見たことのない箱だった。茶色い箱はそれなりの大きさがあり、持ち上げてみると驚くほどに軽い。はて、一体中身はなんだろうか。振ってみても中からはカサカサと何かが擦れる音しかしない。不思議に思いながら蓋を開けてみる。あの子のことだ、きっと変なものではないだろう。
「……折り鶴?」
中に入っていたのは、大量の折り鶴だった。どれもかすかに灰色がかっている。よく見ると、それは薬の包装紙だった。毎日大量に出されていた薬の袋で、この鶴は作られていた。
一つ、手に取ってみる。よく見ると所々破れていたり折り目がずれていたりする。不器用なあの子らしい。折り紙なんて苦手で仕方ないと昔言っていたのに。なんだってまあ、こんなことを。
「ヘッタクソだなぁ。でも、よくこんなに作れたね」
私が知らない間に毎日少しずつ折っていたのだろう。箱の中にぎっしり詰められた鶴たちは千羽以上いそうだった。ずれている折り目を指先でなぞり、小さく笑っていると紙の内側に何かが書かれていることに気がついた。どうやら文字が綴られているようだ。破かないように気をつけながらそっと鶴を開いていく。
小さな鶴が見せてくれたのは、見慣れた彼女の丸っこい文字だった。
「あっ……」
そこには、ただ一言、「愛している」と書かれていた。いつの間にか聞かれなくなった言葉だ。無くなっても仕方ないと思っていた言葉だ。それが、大きな字で書かれていた。
『2016.7.5 愛してる』
『2016.8.24 愛してるよ』
『2017.3.18 今日も、愛してる』
そうやってどの鶴にも書かれていた。日を追うごとにその文字は弱々しくなっていき、途中からは字が震えていた。それでも毎日、薬を飲むたびに彼女は愛の言葉を紡いでいた。それを鶴にして、こうやって箱に入れて、いつか私の元に届くように。そう祈りながら彼女は生きていたのだ。
ああ、そんな。どうして。私のことなんて嫌いになればよかったのに。入院しても駆けつけてくれない薄情な女だと、罵ればいいのに。どうしてこんなにも愛そうとするのか。声にしても消えてしまうから、形に残るようになんて。そんなの、私はもうずっと、彼女のことを忘れられないではないか。
無心になって鶴を解いていると、箱の底から一通の手紙が出てきた。日付を見ると彼女がなくなる前日のものだ。これが、正真正銘最後のラブレターになるのか。今まで何ども手紙をもらってきたけれど、これが最後なのか。そんな思いで封筒を開くと、あまりにも弱々しい文字で言葉が綴られていた。
『私は今まで、何回もあなたに告白をしてきましたね。出会った時、付き合い始めた時、喧嘩をした後、それから一緒に暮らそうと言った時。もちろん日々の中でも何回も行ってきました。でも、私はきっと、これからあなたに伝えられなくなると思います。これ以上私からの告白は増えていかない。それが寂しくて寂しくて、すごく自分勝手だけど、こうして形にしました。
もしも私が先に死んでしまって、あなたが他の人を好きになったとして。いや、むしろそうやって私のことは忘れて欲しいんだけれど、それでもそれまでの間、あなたが寂しくないように。こうやって手紙を書きます。これが、一生分のラブレターです。私があなたに送る、送りたかった、一生分のラブレター。本当はもっとたくさん、この鶴以上「愛してる」って言いたかったのに。でも、許してね。今の私にはこれが精一杯です。
どうか幸せに。今も、昔も、これからも。私はあなたのことを愛しています』
頰に、冷たいものが流れた。シャツに大きなシミができる。目の前がじわりと滲んで、ああ、私が泣いているのかと気がついた。そうなるともうダメで、次から次へと涙が溢れて出てきた。彼女がいなくなって、初めて流した涙は悲しいほどに冷たい。もう誰も拭ってくれないのかと思うとまた涙が出て、泣き腫らした私に蜂蜜入りの紅茶を淹れてくれる人もいないのかと思い声をあげて泣いた。
なんでもっと「愛している」と言わなかったんだろう。恥ずかしいとか、柄じゃないとか。そんなことよりもずっと大事なものはあったはずなのに。こうしていなくなって初めて気がつくなんて。私が受け流していた言葉を、彼女はいつも、魂を削って紡いでいたのだ。それなのに、ああ、なんてことを。
「ごめん……ごめんね、ありがとう……私も、愛してる」
人生を変えるほどの出会いがあるかと聞かれると、私は迷わずに「ある」と言えるだろう。そんな大げさなと笑われるかもしれないが、それでも私は胸を張って言える。私はこの人に出会って、人生が変わったのだと。
声を枯らすほどに「愛している」と伝えたい人に出会えたのだと、私はそれを抱えてこれから生きていくのだ。