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Good Morning, Layla.

 ごめんねと、愛しているは。一体どう違うんだろうか。それは今でもわからない。もうこんな歳になって、結婚なんてできっこないとわかっていて、女としての盛りを過ぎた今になってもそれははっきりとしていなかった。だって私が今まで思い続けてきたのは、たった一人しかいないからだ。

 それは確か、私たちがまだ二十代だった頃のことだ。レイラはどこかの貴族と結婚して、私は大学卒業を目前とした時だった。結婚して五年は経つのにまだ子供ができず、相手の家族から小言を言われる日々だったレイラは、ある日突然私に手紙を送ってきたのだ。『時間のある時に来て下さらないかしら』と、控えめながらも断る隙のない書き方は、いつになっても変わらないんだなと小さく笑ったことを覚えている。

 特待生という立場で授業料をほとんど払わず大学に通っていた私は、周りの生徒からいつも冷たい目で見られていた。そもそも女性が大学なんて、考えられなかったのだ。校内には私以外の女性は事務として働く数名と、掃除を担当する人たちだけだった。だから妙齢の女性、となると私しかいなくて、最初の頃は、それはもう大変だった。

 男ばかりの環境に女が一人いるのだ。興味本位で声をかけてくる人もいれば、逆に疎ましい目を向けてくる人もいた。まあそんなの正直どっちでもよくて、私はやるべきことをやるだけだった。ここまでくるのにどれほど努力したと思っているんだ。あんたたちみたいに、家の名前と金の力でのうのうとやってきたのとは違うんだ。私は独学でラテン語も古典ギリシャ語も英語もフランス語も、全部身につけた。哲学も、文学も、数学だって。血反吐を吐く思いで本にかじりついた。それは結局、名誉とか誇りとかそういうものではなく、ただ後悔と懺悔の気持ちだけのためだったのだ。

「アンナさん! おかえりなさい、会いたかったわ!」

「レイラ。そんなに走ったら転ぶわよ」

「大丈夫、ああ、本当にアンナさんなのね。嬉しい!」

「大袈裟ね」

 大学に入学してから一度も帰っていなかった地元に戻ってきて、そういえば自分の町はこんなものだったかとしみじみ思う。古い駅舎から大学のある三つ隣の町に向かったのがもう随分と昔のことのようだ。改札まで迎えに来てくれたレイラは、記憶よりも古臭い格好をしていた。

 さえない灰色のドレスにクリーム色のフリル、髪型も適当にまとめただけだ。化粧気のない頰は、しかしそれでも美しい陶器のように白く輝いていた。前は派手とは言わないまでも小綺麗にしていた。上質な布で作られたスカートを風にまとわせて草原を歩く姿を今でも思い出す。日焼けすると肌が痛いから、と言っていつもかぶっていたあの大きな帽子は一体どこにいったのだろうか。

「遠かったでしょう? ありがとう、助かったわ」

「いいえ。早く会いたかったのよ。家でじっとなんて待っていられないわ」

「でも家事もあるでしょう? 結構大変なんじゃあないの?」

「そんなことないわ。ただ家にいるだけよ。退屈で死んじゃいそう」

「そう、なの」

 駅の前で待たせていた馬車に荷物を預け、先に乗り込ませる。馭者が私に手を差し伸べてきたけれど、それを無視した。別にこれくらい、自分一人で乗れる。その様子を見たレイラがクスクス笑っているのが見えて、右の頬にできる笑くぼは何も変わらないんだなとなぜか安心した。それに私は動きやすいパンツスーツなのだ。どうして助けがいると思ったのだろう。

 向かい合わせに座ると、ますます私たちは似ているところがないように思えた。方やどこぞの伯爵夫人、方や派手な色をしたスーツを着た男みたいな女。一体どういう関係なんだろうかと、きっと周りからは思われるだろう。でも私たちの中指にはめられたシルバーリングだけが、これまでの長い絆を示していた。

「まったくもう、いつの間にそんな綺麗になったのかしら。やっぱり大学ってここと全然違うの?」

「そりゃねぇ。楽しいものよ。自分の知らなかったことを毎日学べるんだもの。楽しいわ、いろいろ差し引くと」

「本当、そういう皮肉っぽいところも変わらないわね」

 馬車が向かう方向は私のしっている場所ではなかった。そうか、彼女はもう昔と違う家に住んでいるのか。確かに今まで何度か手紙を送ってくれていたけれど、住所まで見る余裕はなかった。実家とはそう遠くはないけれど、町外れの森を超えないといけないらしい。これは街で買い物をするにも一苦労だろう。

 ガタガタした石畳を走る間も思い出話は尽きなかった。よく通ったクレープ屋さんはまだあるのかとか、果物屋で買い食いをした杏の味とか、よく走り回っていた草原の香りとか。そういう二人で一緒に過ごした日々のことだけでなく、レイラは私に大学の話を聞きたがった。

 ご飯はどうしているのか。学問はどういうものなのか。どういう勉強をしているのか。私が答え切る前から矢継ぎ早に質問してくる。それに一つ一つ答えていると、もう直ぐ目的地に到着すると馭者に言われた。

 そういえば、私はレイラの話を何も聞けなかったなと、預けていたトランクを受け取りながらそう思った。本当はもっとたくさん聞きたかったのに。結婚生活がどういうものか私にはピンとこなかったし、きっとこれからも縁がないのだろうと思っていた。だからいろいろ聞いてみたかった。でも彼女は私にその隙を与えようとしないかのように、ずっと私に質問していた。

 まあ、時間はたっぷりある。今日から二日間はずっと一緒なのだ。その間に聞かずとも分かるだろう。

「さあ、いらっしゃい。ここが、私の家よ」

 そう言って指差したのは、堂々と聳え立つ立派なお屋敷だった。白亜の壁に真鍮の取っ手、青々と茂る森の中に鎮座するその姿は、昔から続く権威と富と、みっともないほどのプライドが見え隠れした。

 私なんて狭いアパートメントに、床が抜けてしまいそうなほどの本を詰め込んで、わずかに残してあるスペースで生活しているというのに。地震が来たら多分私は本に埋もれて死んでしまうなと毎晩思いながら眠っているが、そういう悲惨なことはまだ起きていない。なんだろう。たった一つ選択肢を違えただけでこれほどまでに変わるのか。生活も、見た目も、何もかも。

 それでも人間としての根本が何も変わっていないのであれば、私は十分だと思っていた。レイラがレイラでいてくれたら。あの日のように、心のそこから笑っていてくれるのなら。私はもう、十分だった。

「アンナさんは客間を使ってもらうけれどいいかしら」

「ありがたいわ。横になれるのであればそれで十分」

「食事はお部屋がいいかしら。それとも食堂を使う?」

「レイラと一緒なら、どこでも」

 そういうと、また嬉しそうに笑う。家族団欒の中に入って邪魔をするのは申し訳ないと思ったけれど、あいにくと私は客なのだ。そこまで気を使えるほど私は神経が細かくない。それに私は、レイラに会うために帰ってきたのだ。別に彼女の新しい家族を見るためではない。向こうが嫌がるのならさっさと引き下がるし、構わないのならそれでいい。

 それに、ここ数年ずっと一人で食事をしてきたのだ。たまには誰かと会話をしながら時間を過ごしたい。そんな風に思いながら屋敷の中を案内されていると、不意に妙な違和感を覚えた。これほどまでに広い屋敷だ。召使は何人かすれ違ったけれど、みんな一様にこちらを見ようとしない。中には目があったのにあからさまに視線をそらす者もいる。それだけならまだいい。仕事中で忙しいのだろうと思えるし、別に挨拶を強制したいわけではない。

 ただ、なんだろう。何かとげとげしいものを感じるのだ。拒絶とか、批判とか、侮辱とか。そういう類のものが四方から向けられている気がする。一体どういうことかと隣を歩くレイラを見ると、困ったような顔で「後でね」と言われた。そうか、これは私の勘違いではなかったのかと安心して、それと同時に「どうして」という怒りもわいてきた。

「さあ。ここが客間よ。そんなに広くなくて申し訳ないけど、ゆっくりしてちょうだいね」

「ありがとう……ねえ、レイラ」

「……何かしら」

 どう切り出そうか一瞬悩んで、それから今一番気になっていることを言葉にした。

「あなたの旦那さん、どこにいらっしゃるの? お世話になるから挨拶しておきたくて」

 その言葉に、レイラの体がピシリと固まった。表情が引きつって瞼が震える。もともと白い肌から血の気が引いて、まるで蝋人形のようだった。その色こそが答えで、どうしようもない現実で、彼女を取り囲む人生なのだと察してしまったから、私は「食事は一緒にお部屋で食べましょうね」と当たり障りないことを言ってしまった。

 

 食事の中でレイラが教えてくれたことは、私が想像していたものよりもっと悲惨なものだった。

 かなり年の差があるというのは聞かされていたけれど、親子ほど離れているとは知らなかったそうだ。もともと貴族の家柄であり、実業者としても成功しているのだとか。だから、生活に不自由はないしこれほど大きな屋敷を構えられているのだろう。たくさんの召使を雇い、身の回りのことは何不自由なく暮らしていける。

 それならレイラもきっと幸せだろうと思っていたのに、どうやら彼はもはや初老と言って過言ではない年齢だというのに女遊びが盛んだったそうだ。仕事の接待だと言っては娼館に通い、必要経費だと言って娼婦に貢いだ。それだけでは飽き足らず職場の近くに別邸を設け、そこに女性を囲っているのだそうだ。

 レイラは初め、やめてほしいと言った。結婚したんだから。私があなたの妻なのだから。どうして私ではダメなのかと。そういったらしい。

「でもね、あの人、私にこう言ったの。『結婚に愛情が必要だなんて、誰が言ったんだ』ってね。それで、ああ、私は家柄だけで選ばれただけなんだなと思ってしまったの」

「そんな……それ、お父様に相談はしたの?」

「言えるわけないでしょう? お父様とあの人は仲がいいし、私がいくら言っても聞いてくれない。あの人の言うことは絶対なのよ。女の私が言うことは全部戯言。そういう世界なの」

「……っ」

 彼女が身につける地味で飾り気のないドレスや、刺々しい視線の意味がようやくわかった。彼女は、誰からも望まれていないのだ。どうしてここにいる、お前に何ができる。そう無言で批判されながら日々を過ごしている。

 そんなの、私と何も変わらないじゃあないか。大学で過ごす私は、そういう態度を向けられるのが当然だと思っていた。男社会に女である私が突然やってきたのだ。だから別に何も思わないし、むしろ「いつか見返してやる」と思う。けれど、レイラにはそれがない。望まれた結婚だったはずだ。愛に満ちた結婚生活だったはずだ。なのにどうして。私と同じように、悩み、苦しみ、涙を飲む日々を送っているのだ。

「なんて顔をしているの、アンナさん」

「だって、こんなのあまりに、ひどい」

「ありがとう。私のために泣いてくれる人がこの世に一人はいるんだと思うと、私もまだ生きていけるわ」

「当たり前でしょう! だって、私はあなたのこと」

 あなたのことが、なんだろう。好き、なのか。大切、なのか。それとも、親友だと思っている、なのか。なんだかどれも嘘っぱちで薄っぺらい言葉のように思えた。言葉で表現するにはどうにも難しい。私が彼女に抱いているのは、一体どういう気持ちなんだろうか。

 うまく言葉にできなくて、それがあまりにも悔しくて、気付いたら涙がにじんでいた。本当に泣きたいのは私じゃなくて彼女のはずなのに。ボロボロこぼれる涙をタオルで拭ってくれて、「そろそろ寝ましょうね」と言ったレイラの言葉にただ頷くしかできなかった。

 客間に置かれている一人用のベッドに、二人一緒に潜り込む。狭くてごめんなさいね、と言われたけれど普段私が使っているシングルベッドよりははるかに広い。二人で横になっても、くっついていればそんなに気にならなかった。薄いネグリジェ越しにレイラの熱を感じる。これからきっとこの肌は瑞々しく輝くのだろう。杏色の唇は光を湛え、長い髪は豊かに波打ち、熟れ切る前の体はますます香り立つのだろう。その果実に触れることないまま朽ちらせるなんて。本当、あの男はもったいない。

 話し疲れたのかレイラはすでに眠りに落ちていた。ベッドに入ってからすでに二時間は経過している。その間ずっと、お互いの話をしていたのだ。普段誰とも会話をしないから、と言って嬉しそうにしていたけれど、途中から話すことがなくなってしまい、私は本当につまらない人生を送っているのね、と悲しそうな顔をしていた。

 それはあなたがつまらないのではない。そういう生活をさせている、あの男がつまらないのだ。そのつまらなさに気づかず、何も考えず、ただ藁人形のように生きている召使たちもつまらない。嘆き、悲しみ、その中でささやかな喜びを見出す。それこそが人間なんじゃあないのか。

 そう言って髪を撫でてやると安心したのかふっと目を閉じて、そのまま眠ってしまった。それでも私はまだ髪を撫でる手を動かし続けていた。明後日になれば私はまた大学に戻らないといけない。そうしたら、また彼女は一人になる。でもこれはこの子が選んだものだ。断れないというのはわかっていたけれど、それでも選んだのは彼女自身だ。この現状で生きていくのも、彼女なのだ。私がいつまでもここにいてはいけない。ここにいたら、きっと、彼女はダメになる。

「ごめんね。ただの友達でいられたのなら、どれほどよかったんだろう」

 きっと私はあの男に嫉妬をする。好きでもないのに家族になれて、あの子のことを独占できる。私は、きっとこの世の誰よりもレイラのことを思い、慈しんでいるのに。どうあがいても隣にいられない。独占もできない。そんなのずるい。たかが、男に生まれただけで。

 もしも許される世界なら、私はきっといろいろなところにレイラを連れて行っただろう。広い海も、高い山も、季節ごとに変わる花々も。時間とともに移り変わる空の色を見て、なんでもないことで笑いたい。どうして私にはそれができないんだろう。

「レイラ……おやすみ、良い夢を」

 どうか夢の中では幸せな世界を、と願い、そっと柔らかな唇にキスをした。私が連れて行ってあげられない輝かしい世界は、きっと夢の中にはあるはずだ。

 これから先、私はレイラと会うことはなかった。あの夜勝手に押し付けたキスが私とレイラにとって最初で最後の、口づけだった。

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