愛されることの何ぞ嬉しき。愛することの何ぞ嬉しき。 武者小路実篤
1蕩けるような恋を、してみせる
昔々、あるところに可愛らしいお姫様と心優しい王子様がいました。二人は運命的な出会いをし、運命的な恋に落ちます。それぞれが逃げようのない悩みや困難を抱えているにも関わらず、どうしようもないほどの感情に翻弄されていきます。ライバルが出てくることも、涙を流す夜も、怒りで息ができなくなる時もありました。それでも二人は、自分たちの間にある運命を信じて歩き続けます。そこには深い深い愛と、熱い熱い恋があるのでした。
ああ、そうして最後には幸いな結末を迎えます。誰にも邪魔されることなく二人は手を取り、永遠の愛を誓うのです。柔らかな口付けに酔いしれるお姫様は、この世で一番幸せな人間となるのでした。
「めでたしめでたし! はあ、なんて素敵なんでしょう……!」
私は開いていた本を閉じてため息をついた。そよそよと吹く風が心地よい。お気に入りの大きな木の下に座っていると、頭上で雲雀がちよちよと鳴いていた。着慣れていない紺色のドレスの上に本を置いて空を見上げる。雲が一つないおかげで燦々と降り注ぐ太陽が少し眩しい。
草がよそぐ音と、鳥の声しかここにはない。とても静かで穏やかだ。まるで今まで読んでいた物語のように、私の気持ちは清々しい。とろりと甘い恋愛物語はいつ読んでも素敵だ。
「あーーいいなぁ、私もこんな恋愛がしたい! どこかにいないのかしら」
芝生に寝転んでそう呟いてみる。
それを聞いていたのかそうじゃないのか、背中越しに「ワン」という鳴き声が聞こえてきた。驚いて起き上がると、そこにはここにいないはずの茶色い犬がいた。
「ウィ、ウィル!? どうしてここに……!?」
「どうもこうも、私が連れてきたんですよ! ロザリア様!」
「あっ……」
恐る恐る視線を上げる。声の主が誰かはわかっていたけれど、それだけに気まずい。それまでずっと眩しかったはずなのに。いつの間にか陰りが差していた。
「えっと、キアーラ……ごきげんよう!」
「ごきげんよう! じゃあないですよ! 自分が何をなさったか分かっているんですか!?」
「ちょっと読書をしていただけじゃあないの。ね?」
手に持った本を「ほら」と見せると、それを奪い取られてしまった。ひどい。私のお気に入りなのに。ウィルは何も分かっていないのかぐるぐると私の周りを走っているし、キアーラの気をそらすには役に立たないようだ。ううん、困った。
鮮やかな赤い色のドレスを着たキアーラがぐっと眉間にシワを寄せた。着飾ればきっと美人になると常日頃から言っていた通り、すごく綺麗だ。表情だけは悪魔のようだし、淡いハニーブロンドの髪が威嚇する猫のように逆立っている。私には何かと甘いお父様やお母様と違い、彼女は私に遠慮がないのだ。
「読書をすることは悪いことではありません」
「そうね」
「しかしですね、ロザリア様」
「うっ」
いつでも逃げられるように腰を浮かせたけれどそれに気づいたキアーラがぐっと腕を掴んできた。細かな刺繍が施された袖口にはこれでもかと言わんばかりにフリルがつけられている。小さな宝石が散らばっていて、太陽の光に当たるとそれがキラキラ光って美しかった。
でもこれ、少し動きにくいのだ。ページをめくろうとしたら引っかかるし、歩きにくいし、何より重くて長く着ているとすごく疲れてしまう。それでもキアーラはそれを何事もなく着こなして、おまけに動きがとても早い。でも今はその有能さは見せてくれなくていいなぁ、と逃げ出すことはもう諦めた。これ以上下手な抵抗をすると今後が大変だ。
「今日が、どういう日かご存知ですよね?」
「えーっと」
「ご存知、ですよね?」
「ええ……あの、婚約者との顔合わせ……です」
徐々にしぼんでいく自分の声を聞いて、それに返事をするかのようにウィルが「わん!」と鳴いた。私だって泣き出したい。ああ、もう。この作戦は失敗だったか。どうにも物語のように上手くはいかないものだ。
もしこれが美しい恋愛小説だったら、きっと私はこんな思いをしなくてよかったのだろう。素敵な男性と運命的な出会いをし、燃えるような恋に落ち、多くの困難を乗り越え、そうして結ばれる。そんな夢みたいな恋愛ができるはずなのに。
「だって」
「だっても何もありません」
「嫌なものは嫌なのよ、私」
「ロザリア様、またそんなわがままを言って……!」
そうは言っても嫌なものは嫌なのだ。
愛のない結婚なんて。
家同士のための結婚なんて。
そんなもの、どこにもロマンがない。
そう思ってメイド用のドレスと、今日私が着る用のドレスを入れ替えておいたのだ。私専属のメイドであるキアーラとは背丈がほぼ変わらない。ただちょっと彼女の方が、胸元が豊満なだけで、そこまで変わらない。胸のサイズもそこまで変わらない。ちょっとだけだ。本当に。頑張ればなんとかなる程度にしか変わらない。
だからこっそり入れ替わっておけば相手も騙されると思っていた。キアーラを私と勘違いしてくれたらいいなと思って綿で仕立てられた紺色のメイド用ドレスを着て、お気に入りの本を手に屋敷の裏にある森へと逃げ込んだのだ。
これが今朝の話。そうしてそろそろ婚約者(私は認めていないけれど)がやってくる時間だろうか、といった頃合いでキアーラに見つかったのが今の話。他に着るものを全て隠してしまったから仕方なく私の服を着ているけれど、どうやらそのまま私のふりをしてくれるほどの優しさはなかったようだ。
「キアーラは本当にこれが幸せな結婚だと思う? 顔も知らない、性格もわからない、親が勝手に決めた相手と一緒ともに暮らすなんて」
「それが幸せになる時もあります」
「そうかしら。だってもしかしたら運命の相手がこの世にいるかもしれないのよ? どこかで私を待っていて、いつか迎えに来てくださるような素敵な王子様が。その方と出会えなくなるかもしれないなんて……! ああ、なんて悲しいことなのかしら!」
「もしかしたら婚約者の方が、その王子様かもしれないじゃあないですか」
「そんなわけないわ! だってお父様たちが決めたのよ? それに全然運命的じゃないでしょう?」
キアーラはため息をついて、呆れたように私の隣に腰を下ろした。普段から同じことを言ってはこういう反応をされている。そろそろ理解してくれてもおかしくないはずなのに。一体どうしてかしら。私の熱意が足りないのであれば、もっと頑張って説明しなくては。
「いいですか」
「なぁに?」
ようやく分かってくれたのだろうか。身を乗り出すと、やっぱり相変わらず眉間の皺はそのままだった。あらら?
「失礼ですが、ロザリア様のお好きな本はなんでしたっけ」
「何って、そりゃあもちろん」
今までたくさんの本を読んで来た。この国で書かれたものはもちろん、外国で生み出されてロマンス・フィカリア語に翻訳されたものも読んできた。そのほとんどはラブ・ロマンスで、騎士道物語も好きだけどやっぱり一番胸躍るのは恋愛小説だ。素敵な出会いと恋愛は、いつだって私を夢の世界に連れて行ってくれる。
そうして一番は何か、と言われたら。それはもちろん。
「『ロミオとジュリエット』に決まっているわ! 今まで何度読んだことか、この前上演された劇も本当に素敵だったし、何と言っても……!」
言葉を紡ごうとした私の唇を、キアーラの指が制した。私と違って少し小麦色の肌をしているのは、彼女がイタリアからの移民だからだ。その健康的な指先が、イライラしたように左右に揺れた。
「それ、悲恋でしょう? 貴女は死ぬことが永遠の愛を誓うことだと、本気でお思いですか?」
「むう……」
「そもそもロミオは殺人を犯しますけれど、運命の相手とやらにそういう要素をお望みであれば私は少しばかり閉口しますね」
「むむう……」
それは私だって分かっている。最終的にあの二人は死んでしまうし、決して幸せな終わり方とは言えない。それでもあの二人は逃げられないほどの恋に落ちて、お互いを激しく愛し合った。家柄に縛られ、誰かから決められたレールに乗せられ、それでも愛おしいという思いだけで求めあった。
私は、これこそが真の恋愛だと思う。別に一緒に死にたいとかそういうことではない。溺れるほどの恋に落ちて、激しく求められたい。それに私ならきっとどちらかが死ぬ、なんてことにはしない。二人で一緒に、一生幸せに暮らしました、という一文で終わるような人生を送ってみせる。
だから、今こうやって決められた相手と結婚しなくてはいけないことが不本意だったのだ。本当にその人が私にとって運命の相手かどうか、わかるはずもない。昔からこういうしきたりだったからと言って、どうしてそれに従わなければいけないのか。もしもそれを「運命」だと言うのなら、私はこの手で変えてみせる。
蕩けるような恋を、してみせる。
「フィカーリア家のため、と考えると辛くなるのですよ。どんな状況でも前向きでいるのが貴女の長所だと私は思いますけどね」
「キアーラ……! ああ、やっぱり貴女がメイドでいてくれてよかったわ! そうよね、前向きでいなくてはね」
「単純なところも素敵だと思いますよ。そもそも、仮に私が替え玉として結婚できると思ったのですか?」
「そうね。確かに言われてみれば」
確かに今、この時だけは凌げるかもしれない。それでもすぐにばれてしまうだろう。私の顔なんてこの国に住む人はみんな知っている。それこそ生まれた時から。お母様が赤ん坊の私を抱きかかえ、屋敷のベランダに出て手を振る写真を何度も見たことがある。街に出れば(出ることはあんまりないけれど)お父様とお母様の写真が飾られているし、なんなら紙幣にも描かれている。それもそのはず。二人はこの国を治める、王と妃なのだから。
いやでも。最近はあまり写真に撮られていない気もする。肖像画も断っているし、幼い頃と印象も違っているかもしれない。もしかしたら相手はそれに気がつかず、キアーラを私だと勘違いした可能性だってあったかもしれないのだ。私もキアーラも同じブロンドだし。背丈もあまり変わらないし。ううん、もう少し念入りに作戦を立てればよかったのだろうか。
「そもそもどうしてこの結婚が決められたか、お分かりですか?」
「そりゃあ昔からの決まりでしょう?」
「昔、どうしてこのフィカーリア家と相手のノールズ家が関係を結んだか、ですよ。以前お話しましたよね?」
「あう」
そう言えば言っていた。いつだったか、婚約が正式に言い渡された時だったろうか。どこかの上品なマダムが屋敷にやって来てフィカーリア家とノールズ家の関係を話してくれたのだ。でもどうにも退屈で、ついでに読みかけの本も気になって、半分夢見心地で聞き流していたのだ。なんて言っていたかしら。
足元に駆け寄って来たウィルの頭を撫でてあげる。気持ちよさそうに喉を鳴らして、満足したのか口元から小さな炎を出した。鮮やかな黄色だから体調も良いのだろう。裏庭は広くて走り回るにはうってつけだけど、あまり奥まで行くと危険だからと言って遠くまでは行かせてもらえていない。今日みたいにのびのびと過ごせるのは久しぶりだから、きっとそれもあってこんなに綺麗な色なのだろう。
「いいですか、ロザリア様」
「何よぉ。ここで歴史の勉強でもするつもり? 私は嫌よ?」
「そうではなく……やれやれ、本当に貴女はなんと言うか、宝の持ち腐れですよね」
「ほ、本当に容赦がないのね」
「いいですか」
「はい」
言われなくてもわかっている。私がこうして望まない結婚をしなくてはいけない理由。家柄とか、そういうのもあるけれど。結局全てはこの体に流れる力のせいなのだ。生まれた時からずっとこの時を望まれていた。誰かと結婚し、そうして跡取りを産むこと。それが私の意に則さなくても。そうすることが、この世の平和だと信じられてきた。
適当に足元の草をちぎって軽く息を吹きかける。その拍子に音も立てず小さな花が咲いた。すみれ色の可愛い花だ。それを指先でくるりと回すと、キアーラは「そういうことですよ」と呆れたように、でも関心したように言った。
私には、生まれた時から強い魔力を持っていた。そもそもフィカーリア家は他の家と比べて魔力が強い。だから王になれたし、今でもその威厳を保てている。この国では魔力の強さが権力の証なのだ。お父様もお母様も、立派な統治者である前に優れた魔法使いだ。その力で国を守り、豊かにしていた。
そんな二人の間に生まれた私は、違えることなく強い魔力を持っている。元々は女系だったから、男性よりも女性の方が魔力は濃い。今までこの家に生まれた女性を見てみると、それぞれ得意な魔法は違えどずば抜けた力を持っていた。私もそうあることを望まれ、そうして生きてきた。そのことが別に嫌だったわけではない。何不自由ない暮らしも、溺れるほどたくさんの本も、途切れることのない愛情も。私は贅沢すぎるほど手に入れていた。
でも。
「だからと言って私の意見は無視って、それはひどいと思うのだけれど」
「ロザリア様、貴女もしかして」
「ん?」
不意に、キアーラが神妙な顔をした。オリーブ色の瞳がじっとこちらを見つめてくる。鼻の先に少し散らばるそばかすが、なぜだか目に焼き付いた。
「な、何かしら」
「もしかして……どなたか恋焦がれる方がいらっしゃるのですか」
「えぇ?」
「それほどまでにご結婚を嫌がるなんて、他に意中の方がいられる以外考えられません。どこの馬の骨か存じませんがこのキアーラ・ドメーニカ、ロザリア様お付きのメイドとしてその是非を知りたいと言いますか……!」
「ストップ! 落ち着いて! いないから! そんな人いない! それに尻尾でてるわよ、隠して!」
「あっ」
尻尾だけじゃあなくて可愛らしい耳まで生えていた。ああもう。興奮するとすぐ油断するんだから。私があげた魔力制御のブレスレット、ちゃんとつけているのかしら。金色のふわふわした尻尾は嫌いじゃないけれど、人型でいることを約束して私付きにしたのだから。誰もいなくて本当に良かった。
慌てたように尻尾と耳を隠すキアーラをよそ目に、先ほどの言葉を思い出していた。確かに、私に好きな人が入れば話は別だったのかもしれない。忘れがたい男性がいて、その方とどうしても共に生きていきたい。それほどまでの恋をしてしまったのだから、だから此度の婚約を破棄してくれと。そう願うこともできた。
でもあいにくと私にそういう人はいない。いるとしたら物語に出てくる、王子様くらいだ。私を颯爽と連れ出して、そうして愛してくれる。そんな夢見たいなことを考えては、いつかそういう人が現れるんじゃあないかと期待して、いつのまにかこの日がやってきてしまった。
ああ、私のロミオはどこにいるのかしら!
「あら。元に戻ったみたいね」
「お見苦しいところをお見せしました……」
「いいのよ。私、貴女のその尻尾大好きよ? ふわふわで気持ちいいもの」
「ロザリア様……」
彼女は自分の生まれを気にしているけれど、私は本当に彼女のことが大好きだった。たまに厳しいし口うるさいところもあるけれどいつも私のことを心配してくれる。夜中まで本を読んでいても見逃してくれるし、何より外国の本を私にくれたのはキアーラなのだ。まだ体の感覚に慣れていなくて辛かったろうに。一晩中苦しむ彼女の隣に付き添って汗を拭ってやっていると、少しでも暇にならないようたくさん小説の話をしてくれた。それが罪滅ぼしだと言っていたけれど、私はただ、彼女が早く楽になってくれる方がよほど嬉しかった。
それでも他愛ない話をしている方が楽だからという言葉に説得させられて私は何日も彼女から外国の小説について教えてもらった。この国ではあまり小説が出回っていない。昔々に書かれた寓話はあるけれど、胸踊る冒険譚や締め付けられるほどのラブロマンスというのはほとんど書かれていない。そんなものがなくても、ここではあまりに日常的だったから、というのが私の見解だ。
キアーラの体調も落ち着いて、正式に私付きのメイドとして働きだしてから暇を見つけてはロマンス・フィカリア語に訳されている外国の小説を探し回った。街の小さな本屋においてあると聞いたらすぐに買いに行ったし、原文でも読めるように英語も練習した。そうやってますます私は運命的な恋愛に恋い焦がれ、キアーラは「余計なことをした」と後悔している。
「まったく。いつまでも夢を見ていてはいけませんよ? 貴女もすぐに奥方様になるんですから」
「それねぇ……絶対に向いていないと思うのよね」
「そんなの誰にもわかりません」
「ううん」
でもまあ、それはそうかもしれない。人は未知のものに怯える生物だ。自分の知らないもの、経験したことないもの、見たことないもの。それらを異常なほどに恐れる。安定や、安心や、平穏を望むのはそういうことなのかもしれない。私もきっと、このまま決められた結婚をすれば安定はするだろう。ずっと屋敷の中に引きこもって、時がくれば子供を産む。そうして時間が過ぎ、歳をとって、おばあさんになって、死んでいくのだろう。
それを「幸せ」という人はいる。確かにいる。食べるものも着るものも、住むところにも困らない。何もしなくても生きていける。それは当然のことながら、幸せの一つになるだろう。
でも。
「不服そうですね」
「そりゃあねぇ」
「気持ちはわかりますけれど、決まりは決まりです」
「うう……」
どうしようもないのだろうか。このまま私は決められた人生から逃げられず、望まない生活を送ることになるのだろうか。ロミオとジュリエットは死によって結ばれたけれど、私にはそうしてまで共に生きたいという人さえいない。ああ、それはなんて悲しいことだろうか。
芝生にごろりと寝転がる。キアーラのドレスだからあまり汚してしまったら申し訳ない。でも、こうやって悠々と空を眺めることだってもうあまりないのかもしれない。そう思うと、今のこの時間があまりにも尊いものに思えるのだ。
鼻先を近づけてきたウィルを撫でてやる。気持ち良さそうな顔をしているけれど、ここで炎を吐かれたら私の前髪が燃えてしまう。それだけはやめてほしいから、少しだけ顔を横に向けてやる。案の定小さな炎がぼっと出てきて、あのままぼんやりしていたら危ないことになっていた。
「そういえば、キアーラもジェラニアに来てくれるのよね?」
「貴女が素直に嫁いでくだされば、ですけれど。ようやくその気になってくださいましたか」
「言葉の綾ですけど……仮に、ってことよ」
「まあなんでもいいですけれどね。いきますよ。貴女がいく先に私は必ずいると前に言いましたよね。忘れたとは言わせません」
畳み掛けるように言われたその言葉に、私は思わず笑ってしまう。そうだったわね。傷ついてボロボロになっていたキアーラを助けた時、何かお礼がしたいと言われた。今からもう十年ほど前のことだろうか。私たちがまだ六歳とか、五歳くらいの時だ。私と同じくらいの年齢なのに、どうしてこんなんひどい目にあっているのだろう。私と何が違うんだろう。確かに見た目は少し違うかもしれない。身体中に流れる血が、少しだけ違うかもしれない。でも彼女は、生きているのだ。私と同じように、自分の足で立って、自分の肺で呼吸をして、そうして生きている。一体何が違うのだろう。
自分にできうる限りの治療をしている最中、彼女が漏らしたのは「この恩は一生忘れません」という言葉だった。そんなもの別にいらないと言っても食い下がる。しまいには泣き始める始末で、こうなったらもうわかったとしか言う他ないなと思った。小さな手はひんやりと冷たくて、激しく乱れた呼吸は荒くて、それでも噛みしめるように漏れ出た言葉を、私はないがしろにはできなかった。
「わかってるわよ。ちゃんと」
「だったらいいんですけど」
「まあ、私がいないと何かあった時に困るわけですしね」
「コルセットを結ぶ時とかですか」
「そうそう、ちょっと油断するとサイズが……って、違うわよ! 貴女が! 困るでしょう!?」
冗談で言ったのだろう、キアーラはケラケラと転がるような声で笑った。私もそれにつられて笑ってしまう。なんて意味のない会話なんだろう。だけど、それがとても心地よい。コルセットなんて誰にでもお願いできる。それでも私は、毎朝その行為をするのはキアーラがいいと思った。彼女ほど私のことを知っている人はいない。
ひとしきり笑って、目尻から流れて来た涙を拭って、そうしてキアーラも寝転がるようにと腕を引っ張る。自分一人でだけこうしているのは勿体無い気持ちだった。だって空はどこまでも青くて、雲は悲しいほどに白い。風は優しく日は穏やかだ。こんな日に私一人が天を向いているなんて。そんな贅沢、私には勿体無い。
「ダメですよ、ドレスが汚れてしまいます」
「いいのいいの。私よくこうしているし」
「だからと言ってそれは許されるわけではありませんが」
「あれ、そう?」
「そうですよ……やれやれ」
誰がその汚れたドレスを洗うと思っているんですか、とおきまりの小言が聞こえてくる。いつものことだから聞き流して、渋っているキアーラに抱きつく。突然のことだったから驚いたのだろう、珍しく少し甲高い声をあげて見事に倒れていった。
少しだけ、獣臭い。でもそれがキアーラの香りだ。どこにいても一番落ち着く、彼女の香りだ。もう結婚なんてせずに彼女と、それからウィルの三人で暮らしていきたい。きっとそれは楽しい日々だろう。それを許してくれる結婚相手なら許してやってもいいだろうか。
「もう、ロザリア様!」
「いいじゃない。こんなにいい天気なのよ?」
「全く……」
困ったような声を出しながら私の頭を撫でてくれる。その手つきが今でもまだ不器用なところも愛おしい。ほとんど一緒に過ごしていないお母様より、ずっと隣にいたキアーラの手の方が私には馴染んでいる。
私より少しだけ(本当に少しだけだと思う)ふくよかな胸に顔を埋めて息をつく。ああ、落ち着く。胸元に施された宝石が頰に当たって痛いけれど、それでも気持ちがいい。このままお昼寝をしてしまったら、もうここに到着しているであろう婚約者さんとやらも帰ってくれるだろうか。そうだといいな。そうしたらずっと、こうしていられるのに。
いつまでも、大好きな人と、愛おしい物語と一緒に居られるのに。
「……ロザリア様」
でも、人生はそれを許してくれない。遠くに小さな影が見えた。それは明らかにこちらに向かっている。ズシリと胃が重たくなっていく。やはり私は逃げられないのだろうか。そレでも、相手が何であっても、私は負けたくない。
体を起こしてこちらに向かってくる小さな影を睨みつける。身長は、お父様より少しだけ高いくらいだろうか。紺色のマントがひらりと舞っている。規則正しく動く足はすらりと長い。白いジャケットに、同じ色をしたパンツが眩しかった。腰に下げているのはサーベルだろう。
ああ、やっぱりこの人も「戦う」人なのか。私が嫌い嫌いで仕方ない、戦う男だ。私はそんな人のところに行かないといけないなんて。なんてひどい仕打ちなんだろうか。望んでもいない人のところへ、行きたくないのに行かないといけない。これほどの非情がこの世にあるだろうか。私の生まれが、名前が、血がそうさせているのなら、全てを捨ててどこかへ行ってしまいたい。そう、ロミオみたいな王子様と一緒に。どこか、遠くへ。
「まあ、これ以上は逃げられないみたいね」
「ようやく覚悟を決めていただけたようですね」
「いつまでもコソコソしているのはなんだか私が悪いことをしたみたいで気分が悪いでしょう?」
洋服を取り替えて、挙句逃げ出した時点で十分悪いと思いますよ、と呟くキアーラを無視して前を見据える。それまで豆粒くらいにしか見えて居なかったシルエットが、今でははっきりと見えていた。どうやら足も早いようで、ますます軍人めいて見える。貴族の長男、と聞いていたのに。最近は貴族であろうと軍隊に属するから仕方がないのかもしれない。
仕方ない、で済ませられるほど私は単純じゃないし、簡単でもない。
「ねえ、キアーラ」
「なんですか?」
ふと思いついたアイディアをキアーラに耳打ちする。あからさまに嫌そうな顔をしたキアーラをなだめつつ、どうせこれが最後の抵抗になるのだ。もしもこれで駄目なら私は大人しくドレスを着替えて、ロザリア・ディ・フィカーリアとして振る舞おう。フィカリア王国第一王女として。私は彼の前に立つことにしよう。
急いで乱れた髪を整えて、ついでにキアーラのも整えてあげる。先ほど咲かせた花も飾ってあげて、これだけ見れば王女に見えなくもない。それに、どちらかが名乗らなければきっとわからないだろうし。嘘の名乗りをしなければこちらに罪はない。勝手に勘違いした向こうが悪いのだ。
「来たわよ」
「全く、もう……」
さく、と芝生を踏む音がする。小気味好い音だ。乱れなく、規則的な足音。それが確かにこちらへと近づいていた。視界の端にマントがなびく。それにつられて顔を上げた。
最初は、鼻で笑ってやるつもりだったのだ。戦いにしか興味がない、親に決められた結婚に反抗もしない、こんなところまで一人でのこのこやってくる。一体どれほどおめでたい男なんだろう。
そうやって笑い飛ばしてやろうと思ったのだ。そうすれば少しはこちらの気も紛れる。それに、今こうやって私とキアーラは服を取り替えているのだ。もしかしたらうっかり勘違いするかもしれない。
そうなったら私は一生それについて笑ってやろうと思っていた。そうでもしないとやっていられない。我慢ならない。だからせめて笑ってやろう。なんでもいいから笑い飛ばしてやろう。
そんな、意地の悪いことを考えたのがよくなかったのだろう。
「あ……」
その人は、とても美しい瞳をしていた。
菫色の瞳が。
ブルネットの髪が。
目の前に広がっていた。
「そちらにおられるのは、ロザリア・ディ・フィカーリア様で間違いないか」
薄い唇から漏れ出たのは、やや掠れたテノールだった。凛としてよく通る。夏にすっと吹く涼しい風のように、その声は心地よく耳に響いた。
切れ長の瞳は少しだけ目尻が下がっている。それでも上がり気味の眉や、ぎゅっと閉じられた唇からは冷たい印象を受ける。冷酷で冷淡で、非道な人に思える。まだ何も話していないのに。こんなにも、美しい顔をしているのに。どうしてこの人は、ここまで氷のように冷たい表情をしているのだろう。
「あの、えっと」
キアーラが思わず口を開いた。私のふりをするために返事をしようとしたのだろう。あれほど文句や苦言を言っておいて、いざという時は助けになってくれる。というより、私が何も言えなかったのだ。彼の姿が想像以上に美しく、麗しかったから。人は美しいものを見ると言葉を失う。本当にその通りだ。
とは言っても下手に名乗ると嘘になってしまう。ここはうまいこと誤魔化してくれないかなぁ。そうやって期待はするが助け船は出してやれない。ううん、ごめんねキアーラ。今の私には口が開きっぱなしにならないよう力を入れることしかできないのだ。
「ロザリア様は裏の森にいると聞きました。貴女で間違いないですね?」
「その……」
キアーラが、何か言おうとした。「ええ」とか「あの」とか、そういう言葉で濁そうとしたのだろう。でも彼は、その言葉を遮ってじっとこちらを見つめてきた。まるで私がロザリアであると確信しているかのように。
その瞳に、どきりとする。透き通るような菫色は、何か隠し事をしても無駄だと言わんばかりにこちらを見ていた。何か少しでも下手をするとすぐにバレてしまいそう。そんな気持ちにさせる目だ。その視線に思わず背筋に痺れが走る。なぜこの人は、そんな目で私を見るのだろう。今の私はどこにでもいるようなメイド服を着た、一人の少女だというのに。
「私は貴女に聞いているのです。ロザリア・ディ・フィカーリア」
「なんで……!」
「ちょ、何自分から答えを言っているんですか!?」
「あ、しまった」
痛恨のミスを犯してしまい、急いで口を押さえるがそれも後の祭り。今更言い訳のしようもない。
「えーっと……私がロザリアよ。よくわかったわね」
「わからないはずがありません」
「え?」
どこかで私の顔写真を見たのかしら。それとも勘? でも普通、目の前にきらびやかなドレスを着ている女性がいたらそちらを女王だと思うはずだけれど。
何かおかしなところがあったのかしら。
「貴女の、その瞳」
「め、目?」
「赤い瞳をしておられますね。しかもとても濃い。確かに隣のレディも赤いけれど、それよりも貴女の方がより深い色をしています」
そう。私の瞳は、真紅色をしている。この家系は皆そうだ。フィカーリア家の特徴と言ってもいい。鮮やかで、明るい色をした赤い瞳がこの家の特徴だった。キアーラは私に似せて姿をとどめているから自然と瞳の色は似るけれど、ここまで濃い色ではない。
でもそれだって、一つの要素にすぎない。目が赤いだけなら私の家族はみんなそうだ。もしかしたらか秘密の妹や、姉がいるかもしれない。いないけれど。
「それにその髪も。代々ピンクブロンドであると聞いております」
「髪は、その……染めれば、ほら、こんな色にもなるじゃない!」
「そうですね。では、これはどう説明しますか?」
指さされた先は、私の首筋。左の、鎖骨近くにある、赤い花を彼は静かに指差した。ああ、もう。これを指摘されたらもう何も言い訳できない。髪の色も、目の色も、なんとか言い訳できる。でもこれはだめだ。どうにもできない。
首に咲く赤い花は、フィカーリアの血を継いだ者にしか現れない痣だからだ。
「以上の点から貴女をロザリア様と判断いたしました。いかがでしょう」
「……正解、正解よ! あーあ、スカーフでも巻いていればよかったのかしら」
「そうだとしても私にはすぐわかりますよ」
「どうして?」
それはもしかして、運命ということなのかしら。運命の相手だから一目見ただけですぐにわかるとか。そういうことなのかしら。
まあ、なんてロマンチックなのでしょう!
「顔合わせの場から逃げ出した人が、素直に「はいそうです」なんて認めるはずがないでしょう。否定した方がロザリア様だとすぐにわかります」
「な、何よそれ!」
「ですから、素直に肯定した方が替え玉。否定した方が本物であると」
「そういう意味じゃなくて! 何その、夢もロマンもない方法!」
ちょっとだけ期待した私が馬鹿だった! それに何よ、この男! 最初から疑ってかかるなんて! 失礼にもほどがあるじゃない! 突然逃げ出した私も悪いけど! でも!
「夢やロマンで見分けられるはずがないでしょう。ほら行きますよ。国王様たちもお待ちかねです」
「な……っ!」
何よこの男……! どこまでもシステマチックで機械的な話し方をして!
「ああ、そういえば」
「え?」
顔を真っ赤にして怒る私なんてどこ吹く風、彼は涼しい顔で膝を折った。そのまま流れるような仕草でお辞儀をする。さらりとブルネットの髪がなびいて、彼の白い頬に影を作る。
「私はアーノルド・ディ・ノールズ」
「ノールズ……ってことは、貴方が……!?」
嫌な予感がした。
ものすごく嫌な予感がした。
今日私が聞かされていた名前は、確か。
「貴方が、私の婚約者……!?」
「そうなりますね。便宜上は」
こんなロマンのかけらもない男が、私の婚約者!?
そんなまさか。
ひどい、こればかりはひどい。
嘘だと言って、神様!
「う、嘘でしょ……!?」
私の悲鳴が森中に響き渡り、なぜか楽しそうにウィルが「ワン」と鳴いた。これから私、どうなっちゃうの!? ぎゅっと握りしめた芝生からは、また一つ花が咲いた。それは私の首に咲くのと同じように、血のように真っ赤な色をしていた。