top of page

2.もしもこの結婚に意味があるのなら

 腰に巻かれたコルセットを、いつも拷問器具だと思っている。どうしてあんなにギュウギュウと力を込めるのだろう。肺から息を全部押し出して、内臓まで一緒に出そうになって、それでもまだ、これでもかと締め付けてくる。柱にしがみついてなんとか堪えていると、キアーラは笑いながらまたグッと紐を引っ張った。だから苦しいって! 言ってるじゃあないの!

「うん、やっぱりこのドレスはロザリア様に似合いますね」

「あ、ありがと……もうちょっと、ゆるく、ぅえ、締めてもらえるか、しら」

「え? なんですか?」

「だからもっと……っ! く、苦しい……!」

「最近お菓子をたくさん召し上がっていたから、少し太ったのかもしれませんね」

「えぇ……」

 あの後、渋々屋敷に戻っていくとカンカンに怒ったお母様に怒られ、お父様からは呆れたため息を吐かれ、キアーラに自室まで引っ張られていった。とりあえず、私の脱走劇は見事に失敗したわけだ。

 しょうがないので本来なら私が着るはずだったドレスを着ることになった。肩がこるしコルセットは苦しいし、ついでに動きにくいしあまり好きではない。だって袖口にあんなたくさんのフリルがあったら、枝に引っかかって破れてしまう。いやまあ、そうやってドレスが破れるようなことをしなければ良いんだろうけれど。おとなしく部屋で読書をしたり、勉強をしたり、音楽を聴いていれば良いとはわかっている。それが「王女」という立場に相応しい振る舞いなんだろう。

 でも、そんなことをしていたら退屈で死んでしまう。外はこんなに晴れているのに。どうしてこんなところに閉じこもっていなければいけないのか。ついそう思ってしまって、ドレスの裾が汚れることも厭わずに駆け出してしまう。

「はーあ、結局顔合わせしないといけないのね」

「そうですよ。貴女がやらないと誰がするというのですか」

「ううん……」

 コルセットを巻き終わり、それからビスチェを着せてもらう。胸元が大きく開いたドレスだからなのか少しだけ脇のあたりから肉を寄せられる。もう、そういうのしなくていいって言ったのに。でも少しだけ自分の視界に胸が盛り上がって見えて、ささやかな谷間も見えた。ううん、これはこれで悪くない。

 スミレの刺繍が施されたビスチェにガーターをつけて、太ももまでのストッキングを履かせてもらう。膝の裏につけたジャスミンとバニラの香水が鼻をくすぐる。服を着込む前に脇腹や首筋に香水をつけて置いて、汚れないようにする。暇だなぁ、と思いながら椅子に座ったまま足をぶらつかせると、キアーラに「こら」と怒られた。ストッキングが破れないよう念入りに手入れをしてもらい、それからようやくドレスに腕を通した。

 ルビー色をしたドレスは、この日のために仕立ててもらったものだ。胸元から鎖骨にかけて大きく開いた襟元は、一番首元がほっそりと見えるように計算されている。ふわりと膨らんだ肩口から手首まで伸びた袖口にはたっぷりのフリルがつけられていた。デザイン自体は前が少しだけ短くて後ろが長い、最近の流行りに乗っかったものだ。水が流れるように前から後ろへとたくさんのプリーツがあって、歩くたびにひらりと舞う。それが足に触れると心地よくて、つい走り出したくなる。

 それに何より、布全体に小さな宝石がたくさん散りばめられているのだ。光が当たるたびにキラキラと輝いて、シンプルなデザインではあるが、それ故に豪華さが際立っている。後ろのホックを全て留めてもらい、グッと背筋を伸ばすと鏡の向こうには、どこからどう見ても立派なフィカリア王国王女、ロザリア・ディ・フィカーリアがいた。

「素敵ですよ。ロザリア様」

「お化粧、しなくちゃダメかしら」

「貴女は肌が綺麗だから少しだけお粉をはたきましょうね。それから少しだけ紅を乗せれば十分でしょう」

「はぁい」

 本当はお化粧も嫌いだけど、こうして綺麗にしてもらえることは嫌いではない。キアーラの手は細くて気持ちがいい。それにいつも優しいし、私を丁寧に美しくしてくれる。イタリアの生まれだからなのか、センスもいい。このドレスだってキアーラがアドバイスをしてくれたのだ。

 私の目は鮮やかな赤色だし、髪の色もかなり明るい。だから何もしなくとも目立ってしまう。下手にお化粧をするとケバくなるし、ドレスも装飾が多いものにすると悪目立ちする。かといって地味なものは似合わない。デザインはシンプルに、でも決して地味にならないように。そういう難しい注文をキアーラはいつも叶えてくれる。

「少し冷たいですよ」

「うん」

 ひやりとした感触にひくりと肩が跳ねる。甘い薔薇の香りがして、庭で詰んだ薔薇を精製した化粧水だということに気がついた。皮膚に染み込むようにぎゅっと両手で挟み込まれる。首筋まで丹念に浸してもらって、それから柔らかいクリームを塗ってもらう。最後に真珠を砕いた粉をはたいてもらい、指先で紅を頰に乗せてもらった。

 唇には淡いピンク色の口紅を塗ってもらって、これでお化粧は完成だ。

「髪の毛、どうしましょうか」

「ううん、結んだ方がいいかしら。どう思う?」

「そうですね……上だけ結いましょうか。毛先を巻く時間はないけれど、あまりいじるよりはシンプルな方がいいかと」

「じゃあそうしましょう。任せるわね」

「わかりました」

 腰まである髪を櫛で梳いてもらい、それから上半分だけをすくい取ってもらう。こめかみから編み込んでもらい、小さな髪飾りで留めればそれでおしまい。シンプルだけど、一気に大人っぽくなった。胸元が開いているから下手をしたら下品に見えてしまうけれどこれなら問題ないだろう。それに鎖骨のあたりにある花形の痣も程よく隠れて、風が吹くと少しだけ見えるようになっている。

 さすが私のキアーラ。私が一番美しく見える方法をよく知っている。

「さて行きましょう」

「そうね。……嫌な予感しかしないけれど」

「まあまあ、そんなこと言わないで」

「だってあんなロマンの欠片もないことを言うのよ!? 本当、なんて人なのかしら!」

 ブツブツ文句を言いながらも差し出された靴に足を入れる。普段は転ばないようにストラップのついている靴を履くけれど、今日はさすがに許されないようだ。七センチくらいはあるヒールに少しもたつく。

 明るいシャンパン色の靴は、私の髪色によく似ている。女は戦うことができないと言われるけれど、でも本当は、そんなことはない。女には女の、私には私の戦い方がある。この結婚にもしも意味があるとしたら、きっとそれを明らかにすることだろう。

「アーノルド、様ね」

 先ほど初めて顔を見た私の婚約者は、確かそんな名前だった。確かに顔は綺麗だった。ぱっと見女性かと思うほど輪郭は細く、繊細だった。夜空のような髪色も、透き通るすみれ色の瞳も、とても美しかった。その美しい姿からは想像もできないほど辛辣でリアリズムに満ちた言葉が出てくるとは思わなかったけれど!

 ああもう、思い出しただけで腹が立ってくる。こんなので本当に顔合わせなんてできるのかしら。しないといけないのだろうし、あと一年も経たずに私は彼と結婚することになる。そうなったら数時間の我慢、では済まない。一日中一緒にいないといけない。嫌だ嫌だ、気が狂ってしまいそう。どうして好きでもない人と一生を共にしないといけないのかしら。

「ロザリア様」

「何よ」

「心の声がダダ漏れですよ」

「あらいやだ」

 全く、とため息をついたキアーラに、それでもまあ大丈夫よとにこりと笑って肩を叩いた。大丈夫、物語には困難も必要だもの。このあと私をさらってくれるロミオが現れるかもしれない。そうよ、そうに違いないわ。禁断の恋ってやっぱり燃えるじゃない。素敵だわ、お互いの関係も苦難も乗り越えて、そして結ばれる。それこそまさに、ロミオとジュリエットじゃあないの。

 そう思うとこれからの顔合わせも悪くないように思えた。楽しみなわけじゃあないけれど、そのあとに訪れる(予定)のラブロマンスを思えばなんてことはない。それまで歩きにくくて疎ましかったヒールも今は軽やかに、私は自室を出た。

 

***

 

 大広間に行くと、もうそこには全員揃っていた。勝手に逃亡したことを怒られるかと思ったけれど、案外そうでもなかった。先ほどこってり絞られたおかげなのか、それともこれ以上失態を見せたくないと思ったのか、お父様もお母様も何も言わず私の名前を呼んだ。隣には弟たちがどこかそわそわしながら待っている。新年やクリスマスの時にしか着ない正装に袖を通しているからだろうか。

 裾を踏みつけて転ばないように、一歩一歩慎重に階段を降りる。大理石を叩く音が大広間にうわぁんと響いた。歩くたびに香水の香りが広がって行く。きっと今の私を見たら、立派な令嬢だと誰もが思うだろう。そういう仮面を被ることに、もう生まれた時からずっと慣れていた。ほら、私を見てご覧なさい。綺麗でしょう、美しいでしょう、可憐でしょう。温室で大事に大事に育てられた薔薇は、こんなにも見事に咲き誇るのよ、と。貼り付けた笑顔の裏でいつもそう思っていた。

「ロザリア、こちらにいらっしゃい」

「はい。お母様」

 階段を降りきって、ふかふかの絨毯に足を下ろす。見栄えを大切にしないといけないのは仕方がないけれど、ここの手入れが大変だと以前誰かが言っていた。私もヒールを履いているとここで引っかかってしまいそうだから、たまに怖いのだ。今日は決して転ばないようにゆっくりと歩く。

 ふと顔を上げると、私のことをじっと見ているアーノルドがいた。やっぱり遠くから見ても美しい。私が温室で育てられた薔薇だとしたら、彼は崖に一輪だけ咲く百合の花だろうか。どんな場所でも、誰もいなくても、ただそこに凛と咲く。そんな美しさだ。男性相手にこんなことを思うのはおかしいのだろうけれど、それほどまでに彼は、目をみはるほどに美しい。

 そんなにも美しいのに。サーベルは腰から外しているけれど、その目はどこまでも冷たかった。なんてもったいないのかしら。その目に少しでも柔らかさがあれば、もっと輝きが増すというのに。

「こちらが我がノールズ家嫡男、アーノルド・ディ・ノールズです。さ、ご挨拶を」

「アーノルドです。先ほどはお世話様でした」

「あら、そうなの? どこかでお会いしていたのかしら」

「お母様、今はその話はいいから」

 私がキアーラの服を着て逃走したのは知られているけれど、まさか最後の最後まで騙そうとしていたことはバレていなかった。多分これまで知られてしまったら、きっとまた怒られてしまうだろう。それだけは避けたかった。

 相変わらずアーノルドは冷たい目をしていた。まるで品定めをするかのように私のことを見ている。貴方の目に、私は一体どう映っているのかしら。その冷ややかな菫色の瞳に。せいぜいしっかり焼き付けていきなさい。

「さあ、ご紹介なさい」

 お父様の大きくて暖かい手が、私の肩に触れた。それに促されて一歩だけ前に出る。ぎゅっとアーノルドを見て、その瞳を射抜いて、絶対にあんたには屈しないんだからね、と思いながら膝を折った。

 はらりと後れ毛が胸元に散る。耳を飾るイヤリングが揺れて、鈴のような音がした。

 さあ、見てなさい。これが最大限に飾り立てて、美しさを極めた、私の姿よ。

「フィカリア王国第十一代目国王、ヘンリー・ディ・フィカーリアが長女、ロザリア・ディ・フィカーリアでございます。どうぞ今後とも、お見知り置きを」

 深々と頭をさげる。ドレスの裾を、完璧な角度で持ち上げてお辞儀をすると、どこからか感嘆の声が聞こえてきた。

 当然よ。どうすれば自分が一番美しく見えるかを何年も教え込まれてきたのだから。王女として、私は生きてきた。この十六年間、こうあるべきと言われながら生きてきた。だからこれくらい、なんてことないのだ。好きでもない、敬意もない、どうでもいい相手にだって愛想笑いを振りまいてきた。

 そんなものを今更褒められたところで、何も嬉しくない。でもまあ、アーノルドに少しでも驚いてもらえたのなら、ちょっとは満足だ。初対面があんな出会いだったのだから、これでちょっとは私が王女ということがわかってもらえただろうか。

 ゆっくりと体を起こして、満足げな顔でアーノルドを見る。さて、驚いた顔は一体どんなものだろうか。

 そう期待していた。

 なのに。

「こちらこそよろしく頼む」

 目の前にあったのは、先ほどと何も変わっていない無表情だった。

 どこまでも冷たい、冷酷な、悲しいほどに冷徹な顔しか、そこにはなかった。

 なんなのよ。どういうことなの。私が今まで何年もかけて磨き上げてきたものを、そんな簡単に受け流すなんて。私のことなんて、まるで見えてさえいないかのように。

 どうしてそんな、冷たい目で私を見るの。

「……よろしく、お願いします」

 押しつぶされそうな気持ちを必死に飲み込んで、ようやく絞り出した声はあまりにもか細く、弱々しいものだった。まさかここでも彼に負けてしまうなんて。私は、何をやっても彼には勝てない気がしてきた。別に勝負事ではないけれど、男に隷属するために女は結婚するわけではない。それを証明したかったし、そういう結婚を望んでいた。

 だというのに。なんで、こんな。

 こんなに惨めで、悲しい気持ちにならなくちゃいけないの。こんなに綺麗なドレスを着ても、宝石で着飾っても、それらが全部ガラクタのように思えて着た。ぎゅっとドレスの裾を掴んで奥歯を噛みしめる。別にこんな気持ちは何も今が初めてじゃあない。

 だから気にしない。気にしていない。前を向こう。私は、ロザリアなんだから。

「さあ、挨拶も済んだことですしお散歩でもしてきますか? 本当は皆さんでお茶でもと思ったけれど、なんだかもう仲良しみたですし」

 私がそんなことを思っているなんて考えてもいないのだろう。お母様がどこまでも平和そうな声で、そう言った。

「仲良しって、どこが……!」

「あらだって、ウィルがあんなに懐いているのよ?」

「えっ?」

 そう言われてハッと視線をやると、お母様の言葉通りアーノルドの足元にウィルがじゃれついていた。尻尾を大きく振って額を擦り付けている。いつのまにやってきたのだろう。さっきまでは居なかったから、私が目を離したすきに紛れ込んできたのかもしれない。

 でも、ウィルが懐くなんて。そんなこと、あり得るはずがなかった。だってウィルは、そもそも人見知りだ。おまけにずっと私とキアーラが世話をしていたから男性には近づかない。一緒に住んでいるお父様や、弟のロベルトやアルベルトにはかろうじて近くけれど、それでも撫でられると今でも怯えることがある。それがまさか、こんなに懐いているなんて。

 先ほどからわからないことだらけだ。

「キャン、キャウン」

「こら、あまり引っ掻くな。服が汚れる」

「ワン!」

「ちょ、ちょっとウィル! こっちにおいで!」

 このままだと本当に服を引っ掻いてしまうかもしれない。どうしてここまで懐いているかはこの際置いておくとして、まずは現状をどうにかしなくては。急いで駆け寄り、抱き上げる。普段ならそれだけで甘えた声を出すはずなのに、ぐずるように鳴き出したからこっちまで泣きたくなってきた。

 しかしこちらの願いもむなしく、ウィルは悔しいことにアーノルドと一緒に居たいようで、結局私とアーノルド、それからウィルとそのお守りということでキアーラも付いてくることになった。私としては彼と二人きりで過ごすよりは何万倍もマシだと思う。どうせ口を開いたらロマンの欠けらもないことを言うのだ。その度に私はイライラして、そのくせ彼はどこ吹く風といった顔で、それはそれは腹がたつ。

 そもそも顔合わせって、もう顔を突き合わせてるんだからそれでいいでしょうに。これ以上何を話せというのかしら。

「それじゃあ、ごゆっくり」

「はーい……」

「まあロザリア、なんて顔を。女は笑顔でいた方が可愛らしくてよ?」

「なんで嬉しくもないのに笑わないといけないのよ……」

「あらやだ、照れ隠し? ダメよ、いつも素直でいないと」

 今とても素直な気持ちでいるのですけれど!?

 そう言いたかったけれど、ウィルの方がもう限界だったらしい。早く外に行こうと腕の中でそわそわしている。このままだと癇癪を起こしてまた炎を吐いてしまう。今度は前髪が焦げそう、なんて可愛らしいものではなく、中庭が一瞬で消し炭になりかねない。

 しょうがない。どうせ今更外面を取り繕っても意味がないのだ。好きなだけ振舞ってやろう。

「じゃあ、行きましょうか。こちらですよ」

「ああ。それでは、父上。そういうことですので私はここで」

「わかった。うまくやれよ」

「はい」

 どうやらアーノルドのお父上はもうお帰りになるようだ。てっきり一緒に帰るのかと思っていたのに。もしかしたらお仕事が忙しかったのかしら。一応顔だけ出して、ということなのであれば確かにこれ以上ここにいる必要はない。

 何やらお父様たちとお話をしているようで、これ以上見ていてもよくないと思いさっさと中庭につながる廊下を歩き始めた。大広間から中庭まではすぐそこだ。私の部屋からもよく見えるけれど、今は確かアザレアが満開だった気がする。天気もいいしお散歩をするにはちょうどいいかもしれない。

 隣を歩くのが、アーノルドじゃなければ最高だったのに!

「何か」

「いいえ! 何も!」

「そうか」

 私の半歩前を歩くアーノルドに、思い切り舌を出す。どうせ誰も見ていないし別にいいだろう。キアーラが道を案内してくれているから私はただ彼の後ろを歩いていればいい。ああ、それにしても私は彼と何を話せばいいんだろうか。お天気の話? それとも趣味? ううん、もしくは一歩踏み込んで今まで読んだ中で一番好きな本とか? なんだろう、どれを聞いてもあまり盛り上がる気がしない。どうせ今みたいに「そうか」くらいしか返してくれなさそうだし。

 こういうことは社交界やパーティーで結構鍛えられたはずなのに。ここまで無愛想な人とは、どう話せばいいかわからない。

「っていうか、なんで私がこんなに頑張らないといけないのよ……」

「何か言ったか」

「別に! ほらそこ、右! 早く行ってよ!」

「ああ」

 ほらまた! 私ばっかりカリカリしちゃって、彼は何も気にしていないような顔。そっけない返事だけして、それで会話は終わり、みたいに振舞ってくる。話せば話すほどこの人のことがわからなくなる。霞を掴むような気分になってくる。そして、どんどん不安になるのだ。

 本当に私はこの人と結婚するのだろうか。一生共に暮らしていくのだろうか。何を話しても素っ気ないし。お父様も弟たちもよく話す性格だから、こんなに寡黙な男性と接するのは初めてだ。もしかしたら彼の家ではこれが普通なのかもしれない。彼のお父様もそこまでおしゃべりという風には見えなかった。

「さあ、着きましたよ。アーノルド様、ロザリア様」

「ワン! きゃうん、キャン!」

「ちょっと、ウィル! 暴れないで! って、熱! 火を吐かない!」

「がう」

「野生を思い出さない!」

 興奮したせいで鋭くなってしまった犬歯をしまわせる。普段ならいいけれど、今日は高いドレスを着ているし、何よりアーノルドがいる。彼を気遣うわけではないが、怪我をさせてしまうのは本意ではない。それに、後々そういうことを根に持たれても困る。

 がうがう言いながら牙をしまうウィルを撫でて、今度こそ中庭に足を踏み入れた。相変わらずいい天気だ。裏庭みたいに広々とした芝生があるわけではないけれど、代わりに色鮮やかな花々が咲き乱れている。池の近くに置かれたベンチで日向ぼっこをしながら本を読むのが私の楽しみだ。

「その子は」

「え?」

「貴女によく懐いているのだな」

「そりゃまあ。私が育てているんだもの。あ、もちろんキアーラもね」

「そうなのか」

 可愛いな、と手を伸ばしたのを見て、慌ててそれを掴んだ。

「なんだ」

「あのね、この子男の人が苦手なの。さっきはなんでか懐いてたみたいだけど」

 今はちょっと興奮しているし、もしかしたら噛み付いてしまうかもしれない。普通の犬だったら大したことにはならないだろう。でもこの子は、犬じゃない。見た目はすごく似ているけれど、本当は違うのだ。

 だからやめて、と言った。私は止めた。だというのに、彼は私の手を振りほどいてそっとウィルの頭に手を伸ばした。

「ちょっ……! アーノルド!」

「大丈夫だ」

「何がよ! ちょっと引っかかれるだけじゃ済まないのよ! 下手したら手首ごとなくなっちゃう……!」

 必死になって止めようとする私に、なぜか悲しそうな顔をして、それからウィルの頭を優しく撫でた。

 丁寧に、柔らかく、慈しむように。

 ウィルも大人しく撫でられている。おまけに喉まで鳴らして。

「な、んで」

 私には、もう何がどうなっているのか分からなかった。

「変わった種類だな。ドラゴンか?」

 喉のあたりを撫でながら、平然とした顔でアーノルドが尋ねてきた。そうだとも違うとも言わず、私は黙ったまま彼を睨みつける。その綺麗な顔が、ピクリとも動かないことにも腹が立った。

「すごいですね……私でさえも最初はかなり噛みつかれたのに」

 感心したように言っているけれど、あの時は本当に大変だったんだからね! ウィルは甘噛みの加減がわからないし、キアーラはキアーラでうまく声が出せない時だったし。お互いボロボロで、傷まみれで、誰のことも信じられないとその目は言っていた。

 それもそうだろう。二人ともこちらの勝手で傷ついて、そのまま放置されて、そのままボロ雑巾のように捨てられそうになっていたのだ。いくら寝るところと食べるものが与えられたとしても、心の傷は簡単には治らない。それは、私の力を持ってしても、癒えることはなかった。

「どうしてかしら……」

「きっと何かお気に召したところがあったんでしょうね」

「ううん」

 耳のところをクンクン嗅ぎながら、それでも嬉しそうに舐めている。私にそんなことをしてくれたのは、出会ってから二ヶ月以上経ったくらいだったのに。とはいえ、いつまでもこんなことでカリカリしていてはいけない。

 目の前に広がる美しい光景を見ながら、ふう、と深呼吸をする。ささくれた気持ちでいても、せっかくの一日が台無しになってしまう。綺麗なものを見て気持ちを変えないと。それに、我が家の中庭は世界一美しいと誇れたくなるほど整えられている。毎日庭師たちが手入れをしてくれるし、それに何より、居心地が最高なのだ。

「いつまでじゃれてんのよ、ほら、行くわよ」

「ああ」

「そういえば」

 ふと思い出したことがあって、未だにウィルからの甘噛み攻撃を受けているアーノルドに声をかけた。ベロベロ顔中をなめまわされているが、嫌な顔ひとつしない。この人はきっとウィルのことを大切にしてくれるんだろうな、と本能的に感じた。ただ、嬉しそうな顔もくすぐったそうな顔もしない。本当、表情筋生きてるのかしら。

 感情だって、死んでるみたいなのに。

「私たちが、その、仮に結婚したとして」

「仮にではない。確定事項だ」

「ああもう! 言葉の綾ってやつよ! 結婚したとして、一体どこに住むの?」

 ノールズ家といえば確かにフィカーリア家といくらかは関係があった。いつもというわけではないけれど、タイミングによっては婚姻関係になることが多い。もちろんその時に妙齢の男女がいることが前提になるけれど、昔から決まっているかのように、どちらから婿入りとか嫁入りをすることが多々あった。

 でも、だからと言ってどこに住んでいるかは知らないし、これほど名前が通っている家柄なのだから郊外に領地を持っている可能性だってある。私は生まれてずっとここ、首都トラニアに住んでいるけれど、彼と結婚したらどこに住むことになるんだろう。その家には、これほどまでに美しい庭はあるのだろうか。森や、花はあるのだろうか。

 こんなにも冷徹男なのだ。もしかしたら「そんなもの不必要だ」とかなんとか言って、屋敷以外は更地かもしれない。そうだったら嫌だな。私は綺麗な建物や装飾なんかより、綺麗で美しい自然に囲まれて過ごしたかった。

「やっぱりトラニア?」

「いや。少しここから離れることになる」

「あら。そうなのね。どこかしら。素敵なところだと嬉しいわ」

「素敵かどうかはわからない。ただ」

 中庭のタイルを、カツンと踏む。眩しいほどの太陽を浴びて、彼のブルネットは真っ暗な夜空ではなく星々が舞っているかのように輝いていた。

「貴女の望みがあるのならば、それを叶えよう」

「私の?」

 それは思いもよらない言葉だった。まさか私の要望を気にするなんて。彼にそんな気遣いができるなんて思いもよらなかった。もしかしたら、これが初めて私に見せた人間らしいところ? いやでも、もしかしたらこの言葉だって何か裏があるかもしれない。打算とか、そういう大人の嫌らしいと気持ちがあるかもしれない。

 それを知って傷つきたいくない。どうせなら好意を好意として受け取っておきたい。どうせ彼のことを好きになることはないのだ。だったら、どこか一つくらい気にいるところがあってもいいかもしれない。ウィルのことを大切にしてくれるところもそうだけど、人は人のことを全くもって嫌いになることなんてないんだと、そんな浅はかな希望を抱えていたかった。

「何かあるか」

「いきなり言われても……そうね、中庭はあるのかしら?」

「あるにはある。だが、これほど素晴らしくはないが」

「そうでしょうとも! 私もこのお庭が大好きなの。そこのベンチに座って、池を眺めるのも大好き。本を読むのも好きよ。ウィルなんかはよく日向ぼっこをして寝ちゃうの。可愛いでしょう?」

 自分の好きなものを褒められて、つい嬉しくなってしまった。ほら、ここのお花とか。池で泳いでいる子達とか。ベンチの細かな装飾とか。全部全部、私の宝物だった。だから自慢したくなったし、アーノルドにも好きと思って欲しかった。

 この腕に全て収められるわけではないけれど、腕を目一杯まで広げて、そうやって抱きしめられるぶんくらいは心から愛でたいと思う。私にできることは多分これくらいしかない。お父様は国民全員を愛しているし、そうしなくてはいけない。それがお父様の仕事なのだ。お母様はそんなお父様を愛して、それと同じくらいにまた国民を愛していた。どこに行ってもこの国にすむ人たちを優先し、いつでも大切にしていた。

 私にはきっと、そんなことはできない。そこまで望まれていない。ただ笑顔で、静かに手を振っていればいい。それだけで私の役目は全うされる。今の私がやるべきことは、ただそれだけだった。不特定多数から向けられる羨望や賞賛を受け取るだけ。何かを返すことはない。

 何かを返す方法を、私は知らない。

「そうだな」

 だから。彼の、その表情に、何を返せばいいか分からなかった。

(何よ、その顔……)

 どうして、貴方が。そんな顔をするの。泣き出しそうな、怒り出しそうな、そんな顔を。透き通る菫色の瞳には明らかに絶望が浮かんでいた。彼は何を見ているのだろう。この美しい風景を見て、どうして涙を流すのだろうか。感動の涙でも、嬉しい涙でも、喜びの涙でもない。

 ただただそこに、悲しみがあるのはどうしてだろう。

「アーノルド……?」

 それが私の見間違いだったらいいか。ただ目にゴミが入ったとか、眩しかったとか、それだけだったらどれほどいいか。ああ、どうかそうであって。そう思いながら、一歩近づく。私よりも幾分か上の方にある顔を覗き込もうとして、腕を伸ばして、それから。

 彼の頰に、指先が触れた。

「っ、て……! きゃあ!」

「なっ……!?」

 ヒールの先が、ずるりと滑った。タイルの間に挟まっていたのだ。そうと気づかず私は迂闊にも足を動かしてしまった。履きなれない細いヒールだったし、まさかこんな小さな隙間に引っかかるなんて思ってもいなかったのだ。このままだと私は足首をくじいてしまう。いや、それだけならまだいい。一番怖いのは、池に落ちてしまうことだ。いくら外がいい天気で、太陽が出ているとはいえ全身びしょ濡れにはなりたくない。

 なんたってこれはお高いドレスなのだ。それをキアーラに着せて自分は脱走しただけでもこっぴどく叱られたというのに、ましてやそれを汚してしまうなんて。これはもう、お説教だけじゃ済まないだろう。

「ロザリア様!」

 キアーラの悲鳴が聞こえる。必死にこちらに手を伸ばしているけれど、さすがに間に合うはずもない。ぐらりと視界が揺れる。掴まるところはどこにもない。ああ、もうこれは終わった。ドレスも、私も。

 しかもこんな無様な姿をよりにもよってアーノルドの前で見せてしまうなんて。それこそ一生の恥だ。ああもう。本当、いいことが何もない。

 衝撃がなるべく少ないようにと、ぎゅっと目を瞑る。景色が反転していくのを最後に、私の視界は真っ暗になった。これから訪れるであろう衝撃や、冷たさや、羞恥とか全部覚悟して息を止める。不思議と悲鳴は出なかった。出したところでしょうがない。待ち受けているのは揺るぐことのない現実だけだ。

 結婚もそう。躓いたら池に落ちてしまうのと同じでこの家に生まれてしまったら政略結婚しか待ち受けていない。

 そういうものだ。結局。何もかも。

(あーあ、本当、ひどいものだわ)

 本当は内心わかっていたのだ。私がどれほど逃げたとしても、現実はどこまでも追ってくる。私にできることは所詮、綺麗なドレスを着て、愛想笑いを振りまいて、家のために子供を作ることくらいなのだ。そんなことのためだけに私は生まれてきたのだ。ああ、なんてかわいそう。おまけに池に落ちてしまうなんて。

 そうやって、なんだか惨めな気持ちのまま池に体が落ちていく。

 そう思っていた。なのに。

「ロザリア……!」

 突然、右腕を強く引かれた。肩に強い痛みが走る。ぐんと体が持ち上げられて、そのまま遠心力を使って遠くに飛ばされた。突然のことに、何が起きたか何もわからなかった。声も出せないまま私の体は倒れそうになる。それでも私に襲ってくるはずだった冷たい水の感覚は、なぜだかおかしなことに地面に叩きつけられる痛みでさえもなく、暖かい人の温もりだった。

 そして、何かが水に飛び込む大きな音がした。それは、本来なら私が起こすべき音だった。この体が池に叩きつけられ、起こすべき音だった。なのにどうして。私の体は、まだ陸の上にあるのだろう。体はどこも濡れていないのだろう。

 恐る恐る目を開ける。思っていた通り、私の体はきちんと陸の上にあった。長い裾もギリギリ汚れなかったようで、どこにもシミはできていない。靴は脱げてしまったけれど、それ以外に数分前の自分と変わっているところはどこにもなかった。

「ど、どういうこと?」

 目に映ったのは、池に落ちてびしょ濡れになっているアーノルドの姿だった。本来だったら私がそうなっているはずだったのに。どうして、なんて今更聞かなくてもわかるだろう。アーノルドが、私をかばって代わりに池に落ちたのだ。私の腕を引いてくれたのは彼だったのだ。

 落ちる寸前、ふと伸ばした手を掴んで後ろに引っ張り上げてくれた。そして近くにいたキアーラに目配せをして、私の体が地面に叩きつけられないよう支えてくれるようにした。だから私はこうやって、濡れることも怪我をすることもなかったのだ。でもそのせいで、彼は。

「アーノルド! 貴方、何やってるのよ!」

 すんでのところで私を受け止めてくれたキアーラの制止を振り払って、池に駆け寄る。脱げてしまった靴はそのままに、もう片方の靴も脱いで急いで走りよった。この池はそこまで深くはない。せいぜい膝のあたりくらいだ。それでもこの池で泳いでいるのはただの魚ではない。ウィルみたいに、元々は危険な生き物として保護されていた子たちばかりだ。

 池に張られているのは、彼らが持つ力を抑えるための魔力が仕込まれている水で、生身の人間が直接触れると肌がただれてしまう。私は自分の魔力だからからちょっと触れたくらいじゃ何もならない。でも、アーノルドにはおそらくひどい毒になるだろう。肌がただれるくらいじゃ済まない。魔力の強いお父様やお母様でさえも、この池には近寄ろうとしないのだ。そんなところにずっと居たら、風邪を引くどころの騒ぎではなくなってしまう。

「早くそこから出て! じゃないと貴方大変なことに……!」

「大丈夫だ、怪我はない」

「そういう意味じゃないくて! もう、ほら早く!」

 駆け寄って腕を伸ばす。濡れてひんやりした右手をぎゅっと掴んで、それから引き上げようとした。私をかばったせいで背中から落ちたのだろう。頭の上からびっしょりと濡れてしまい、真っ白なジャケットは水を吸って色が濃くなっていた。中に来ているシャツもぺたりと肌に張り付いて、見るからに冷たそうだ。このままでは風邪を引いてしまうと思い、急いで池から引き上げた。

 額に張り付いて鬱陶しのだろうか、前髪をかきあげながら俯くアーノルドの項は冷えたせいか驚くほどに白い。私は自分のドレスが濡れることもかまわず彼のジャケットに手をかけた。

「なんでこんなことをしたのよ、貴方が池に落ちる必要なんてなかったのに!」

「そういうわけにもいかないだろう」

「いくわよ! ほら早くジャケット脱いで! 乾かすから!」

「それは……大丈夫だ。拭くものを貸してもらえたらそれで」

「いいわけないでしょ! もう、何言ってるのよ!」

 何か言いたそうに口を開いたアーノルドを無視して、無理やりジャケットを脱がせる。思ったよりも分厚い生地だったようで、手に取るとズシリと思い。三十分、いや、一時間ほどあれば乾くだろうか。それまでの間は申し訳ないが代わりのものを着てもらって、あとは暖炉に当たれば風邪はひかないだろう。

 そういえば魔力にあてられていないだろうか、と思い、ふと前を見た。

 視線を上げて。

 それから、ピタリと固まってしまった。

「……え?」

「だからいいと言ったんだ、私は」

 目の前には、あるはずのないものがあった。

 ピタリと肌にくっついたシャツの下には、柔らかな膨らみがあった。形を隠すために布か何かを巻きつけているけれど、それでもその下にある双丘は隠しきれない。

 それから、なだらかにくびれていく腰があって、細くはないが太すぎもしない二の腕は触れてみると柔らかな弾力があった。筋肉がついて確かに硬い。でもこれは。この柔らかさは。この滑らかさ、このなだらかさ。

 まさか、これって。

「アーノルド、貴方……貴女もしかして」

 そしてふと、顔を見るために視線を上げて初めて気がついた。

 彼の喉には、本来あるべきはずの喉仏がなかったのだ。

「女、なの」

 親によって決められた婚約者が、絶望するくらいのリアリストで、しかも、どういうわけか男性ではなく女性だったなんて。どういうことなの。私は、恋をすることもできず、夢を見ることもできず、ましてや子供を産むということさえもできないというの。そんな。そんなの。これで肯定されてしまったら、私の憶測は全て現実になってしまう。

 ああ、そんな言葉、聞きたくなかったというのに。どうして私だけこんなにショックを受けているのだろう。どうして彼は、いや、彼女は、何事もなく、平然としているのだろうか。女性の私が、女性のアーノルドを婚約者になるなんて。

 そんなの、なんの意味もない。 

 どうか嘘だと言って。

 私の見間違いだと、勘違いだと。その口で言って欲しかった。

「ロザリア」

 でも返ってきたのは。

「貴女の言う通り、私は女だ」

 どうしようもないほどの、悲しい現実だった。

 パサリと手から滑り落ちたジャケットが、地面に落ちる。じゅう、と音を立てて芝生が溶けていった。

bottom of page